カテゴリ:カルチャー
開設740日目で、記事件数が138件(少ない!)となった。ほとんどログインできなくなってから久しいが、周囲の友人達も、昨年から、ココログ、Jugem、arekao、so-net、アメブロなどなどと開設し、ちかごろでは随分と検索でヒットするくらいになった。
その数人の仲間は、同じ世代で、Sai、a-lei、楓の3人が同い年。その下に30代のkeiやtakuがいる。 takuのご家族が病気になり、介護が必要となったのが、2005年の冬のこと。同じ職業であったので、介護にはいった彼の仕事を引き継いだ。 通常の仕事の1.5倍の負担が、私に。 けれど、「お互いさま」という気持ちで引き継いだ。あとから、あとから、それが私にとって、とても苦しいものとなった。(笑) しかし、takuの場合、介護にはいるということは、職業を捨てるということだ。つまり生活の糧を捨てるということだ。では、病気のご家族とtaku自身の生活は、誰が支えるのか。 その数人の仲間は、同じ世代で、Sai、a-lei、楓の3人が同い年。 つまり、takuのご家族は、僕らの家族より、ずっと若いのである。世代的に私をはじめ、Sai、a-lei、楓と、自分達の家族のほうが高齢なのに、元気でいることに安心し、takuを気の毒がり、あれこれと自宅でできる仕事を紹介したり、力になったつもりだった。 昨年から、すこしづつ私達の家族にも変化が起きた。 Saiのブログで、妙にセンチメンタルな記事をみた。 2006年10月の記事 MORT by クリスチャン・ボルタンスキー 僕が一番恐れているのが「MORT」なのだ。 それは、まだ壁を越えていないからである。 肉親をつれさる「La Mort」が来ないからだ。 つまり「The Death」を指す。死者と死神だ。 なぜ、そんな思いにかられたのか、聞けない。 実は、もっと先に楓がいる。ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」の記事を終えての一言。 「死と隣り合わせを認識しながら生きる」という、フーミン(←楓)なりのコンセプト。 そんな言葉が書き添えてあった。 昨年の春から、私も高齢の家族の様子を気にしている。ところが、そうそう思うようにならないのが人間の世界だ。「家族の様子を気にしている」とあっても、苦しい、痛いを我慢する高齢世代だ。些細で重大な見落としがある。 今年、私にとっては、その恐れがやってくるかもしれない。いま、こうやって、記事をかける心のゆとりが、ほんの少し戻って来たのは、おなじ恐れを抱く仲間がいるからかもしれません。 740日前は、そんな恐れの欠片ひとつなかったのに。(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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