カテゴリ:徒然。。。
こんばんわ。
3連休もあっという間に過ぎてしまいましたね。 ずっと風邪を引いていて、水泳から遠ざかっていたのですが、今週末から久しぶりにジムでの水泳を再開。心なしか、気分もすっきりしました。 先月1ヵ月は私にとって、本当にしんどい1ヵ月でした。深い、暗い、穴の中に落っこちそうになるのを必死で食い止めた感じです。まだまだ落ち込むときもありますが、最悪の事態を招く前になんとかなったのではないか・・・と思ってます。 今回は、ちょっと重い話ですが、ぜひ今ここに書きとめておきたいと思ったので。先月、叔父が癌の告知を受けました。部位が部位ですので、手術は不可。なすすべがありません。 そこで大きな問題となったのが、医師からの「告知」のタイミングでした。叔父と叔母は、「最近具合がよくないから」というので、病院に行き、そのまま検査を受けたのですが、そこで何の猶予もなく、医師は「●●さん、あなたはXX癌です。」とあっさりと告知したそうです。 最近、インフォームド・コンセントとやらが流行っており、「告知」は当たり前になったという話はしっています。でも、患者さんの性格も、生き方も、何も知らないうちから、当たり前に「余命XXです」というのが本当に正しい方法なのでしょうか? 実際、私も私の両親も、「もし自分が癌だったら、絶対に知りたい」と思っている派でした。でも、身近でこのようなことがおき、家族で何度も話をしましたが、やっぱり「告知」ばかりが絶対ではないのではないか・・・という意見も現実味をおびてきました。 叔父と叔母、私の従兄弟。今、とても苦しい状態にいます。 「告知」が必要だったのか、「告知すべきでなかったのか」正しいことはわかりません。何しろ、「家族が告知するかどうか」を考える暇もなく、なんの用意もなく、突然に告知をうけたのですから。。 私はいまだに「告知」を受けたい派ですが、それでも本当に「それが正しい方法」なのかはわかりません。 「告知」を受けた場合、そこから、当たり前ですが、過去にはもどれないのです。 一秒でも、一分でも、家族も自分も、常に「死」と向き合わなければならないのです。 難しい問題ですが、普段から家族と「死」に対する話をするのも重要なことなんだな。。。とあらためて考えました。 私は、大学時代にアルフォンス・デーケン氏の「死の哲学」という講義を受けていましたが、最近またあらためて、その当時の本を読み返してみました。 答えはまだ見つかりませんが、「死をタブーでないこととして扱うようにすること」からはじめていかなくてはならないんだな。。。と思います。 ちなみに、ぜひ医者及び医学の道を目指している方にも、「死の哲学」を勉強してほしい。と思いました。 「告知」が単なる医者側の逃げ、にならないようにしてほしいと切に願います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 12, 2007 05:25:57 PM
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