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あくまで、私は子どもがいないので、呑気に思っているっていうのはそうなんだけど。
原発、放射能漏れに対する、ヒステリックなまでの反応に、何か辟易とする。 特に、今まで、その原発のおかげで生活をしていた、東京電力管内の人たちの言動には驚かされる。 ガイガーカウンターで数値計って、都内から例えば九州へ引越せる人は良いけど、 東京の人たちのための原発のせいなのに、避難できない、福島の人たちはどうする? 何で、福島に、東京電力の原発があるのか。 誰のために、誰が、痛みを負ってきたのか。 そして今、より一層の苦労を誰が背負っているのか。 これを無視しては、前には進めない。 もちろん、代替エネルギーの開発・推進は超急務で必要。 原発ではない、自然エネルギーで電力が賄われるようになるのが理想だし、 これはきっと、果たされるって思うし、 原発停止を求める気持ちにも同調する。 ただ、しつこいようだけど、 何で、東京の人たちのために、福島の人たちが苦しんでいるのか。 そういう意味で、被災していない、そして、福島の人たちの苦しみの上で、電力生活を送ってきた東京の人たちが、遠くに遠くに避難する術があるのに、 福島の人たちは、避難する術がない。 放射線が怖いと言って、地方に避難する東京の人たちを、 福島の人たちはどんな風に観ているのだろう。 「原発を停止せよ!」という掛け声が 「福島の人たちをこれ以上苦しめるな!」ではなく 「東京にまで放射能が飛んでくるなんて!」 という言葉を孕んでいるように聞こえるのは、なぜだろう。 原子力発電論は、二元論だ。 「原発稼働停止と代替エネルギー開発」、 そして、何より、「地方の痛み」とでも言うのだろうか。 誰が誰のために、どんな苦労を、どういう風に負っているのか。 今現在、誰のために、誰が苦しんでいるのか。 そこに目を向けない限り、何が「頑張ろう東北!」だ、と心から思う。 このヒステリックなまでの正義感。 私には十分すぎる違和感を感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月02日 09時19分05秒
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