|
カテゴリ:カテゴリ未分類
短時間で人と1つのテーマについて話す時、誰でも価値観の違いがある、というのは大前提なのだけど、
忘れがちなのは、相手と自分が同じ情報に基づいて判断をしているとは限らない、という事。 同じ情報をお互いが把握した上でも、価値観の相違から、判断する方向性が違うような事柄についてなら、尚更。 例えば、原子力発電。 もちろん、太陽光とか風力とか水力とかで電力供給が十分賄えるなら、ないのが理想。 事故が起きた際の放射線はじめ、色々な問題を考えるとその危険性は言うに及ばず。 が、国防の観点からはどうだろう。 常任理事国(米・英・仏・ロ・中)が核の保有が認められている現状で、“有事”の際に、エネルギー資源が乏しい日本が、自然エネルギーだけで、立ち向かえるのだろうか? いわゆる電力供給のための原子力開発、研究の範囲を大きく超えて、それが核開発と常にリンクしていて、電力会社が半官半民と言うより、国の機関である国と、日本はどう向き合うのだろうか? もちろん、そうならないために、ギリギリのラインで外交交渉をして、平和の大切さを訴え、自国の事だけをワガママに考えず、そして、国力としての知力、技術力、経済力等々を培っているのだけど、 そんな常識が通じず、我々の“正義”は相手にとっては“悪”であるかも知れず、ドカンと撃ってくる相手に、自然エネルギーだけで立ち向かえるのか? 冷戦時代のように、「核を持っているアピール」で力の均衡を取る時代が終わったとは言え、実際に持っている国が強いのは明らか。 だから核を持てば良いというわけではなく、それでも、脅威に備えるためには、せめて対抗しうるエネルギーを保持しておかなくてはならないのが現実。 一般生活の電力供給は自然エネルギーだけで賄えるようになり、国防としてのエネルギーも原子力発電に頼ることなく平和な状態が続くのが理想なのだけど、今はそれは無理。 国防を支えるエネルギーが原発以外で安全に供給されるのにはどうしたらいいんだろうっていつも思うの。 原子力発電の話をするとき、それらを踏まえた上で、話をする必要があると思うのだけど、知ってるから偉いとか、知らないのに偉そうにとか、そういう状態になってしまうと全然、話が進まないんだよね。 それに、私が考えている以上にまた別の“知識”とか“事実”があって、それを知るとまた、別の考えが出てきたりする。 『無知の知』ってまさにそれ。 ソクラテスは、私がこの言葉を聞いた時、“認識論的自己反省”という枠組みを聞かずして、反省したなんて、想像出来たのかしら。 自分が知っている事が全てではないという前提で、人の知識や意見を聞いて、判断して、成長していきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年05月10日 20時37分58秒
|
|