自転車で新選組散策
懸案だった自転車での日野行きをようやく実行しました。 それまで、大河ドラマのDVDなんか観て、モチベーションを高めてみたりね(笑)。 先週のように、暗い道を走るのは嫌なので、朝(と言っても8時過ぎでしたが)のうちに出発。 天気はうす曇、境川沿いは強い向かい風で、何だか足が重い。先の道程を考え、無理せずに 景色を眺めながら、のんびり走りました。 途中のファミレスで昼食を取り、タラタラ走り続けて、12時半頃に日野の「高幡不動尊」に到着。 こんなに大きなお寺でしたか。五重塔が遠くから目立っていました。 私はお不動様の縁日の28日の生まれなので、何となくお参りしていくことに。 境内は七五三の着飾った親子連れで賑やか。もう、そんな季節なんですね。 近藤勇・土方歳三両雄の顕彰碑「殉節両雄之碑」と土方歳三銅像 こちらは土方歳三さんの菩提寺だそうで、歳三さんの位牌や新選組隊士慰霊の大位牌が 納められ、書簡や新選組資料が展示されてるそうな。 菩提寺ってお墓のあるお寺かと思っていたんですが、歳三さんのお墓は、別のお寺なん ですよね。 「殉節両雄之碑」の説明文 説明文の発起人にあるのは、佐藤俊正(=彦五郎)〔歳三義兄〕・糟谷良循〔歳三実兄〕・ 土方義弘〔歳三甥〕・近藤勇五(次?)郎〔勇養子〕・本田定年〔歳三親戚〕・橋本政直 〔歳三親戚〕・小島為政(=鹿之助)〔歳三親戚〕(敬称略)、といった縁の方々です。 「松本順? 松本良順じゃないの?」と思ったら、明治になってから改名したそうな。 説明文にある「篆額」とは、篆書体という字体で書いた石碑の題字のことだそうです。 このことにもエピソードがあって、篆額の書は、初め、徳川慶喜公に依頼したところ、 ただ涙するばかりで、二度に渡るお願いにも、“書くとも書かないとも”お返事いただけず、 旧会津藩主松平容保公が書くことになったそうな。松平容保公は、いい人ですね。 新選組は、京都守護だった会津藩主松平容保公のお抱えで、ひたすら徳川幕府を守るために、 最後まで闘ったわけですが、徳川慶喜公にとっては、どんな存在だったんでしょうね。 何だか、新選組の片思いのような気がして切ないです。 殉節両雄之碑 碑の内容は、二人の汚名を晴らし、幕府への忠節を讃えるもので、碑文は明治9年に完成して いたものの許可が下りず、明治15年にようやく神奈川県令(知事)の許可が下りて、明治21年 に建立できたのだそうです。 なぜ、神奈川県令の許可かというと、日野は明治26年まで神奈川県だったから。 土方歳三銅像 珍しく和装の歳三さん 写真とは似てない気がする… 多摩地域の東京移管についても、いろいろと裏話が…。 その頃、日野や町田などの南多摩では、自由民権運動(実態はアンチ薩長)がかなり活発で、 神奈川県議会の多摩議席を独占する勢いだったそう。 明治政府や政府派遣の県令にとって、政府に批判的な自由民権団体は目の上のタンコブ。 手を焼いた神奈川県令は、多摩自由党を神奈川県議会から追い出すべく、以前から、西多摩 と北多摩の移管を求めていた東京府に、南多摩も含めた移管を提案したんですと。 ひどい話です…。 なお、多摩の自由民権運動を支援していたのは、新選組支援者でもあった佐藤彦五郎さんや 小島鹿之助さん達でした。明治になっても、幕末は終わっていません。 おまけに神奈川県の形まで変えていたとは…。今の神奈川県の北側は、町田が深く食い込む 妙な県境です。 多摩川の支流 浅川 日野の歩道は段だら模様 やっぱり新選組だから? 新選組のふるさと歴史館 この前に来た時は、迷って行き着けなかった「新選組のふるさと歴史館」。 やはり今回も迷いに迷って、周辺一帯をグルグル回りました。道を聞こうにも、誰も歩いて いないんです。休日の住宅地を自転車で大きく回っても、誰にも会わないって一体…? ようやく資料館に着いたのは、1時半過ぎ。館内もあまり人が居ませんでした。 帰りの時間が気になって、展示にあまり集中できません。 展示を見るときは、電車の方がいいかも。 館を出たのは2時15分。あまり時間がないというのに、帰りの道の曲がり角を見逃して、 随分行き過ぎてしまっていました。 何だか見覚えがあると思ったら、土方歳三さんちの近く。 歳三さんちの案内看板 幸いこの辺りは割と人が歩いていたので、高幡不動尊まで行く道を教えてもらい、何とかルートに 戻れました。本当にどうしようかと思いましたです。(皆様、御親切にありがとうございました。) まだ日野にいるのに、太陽は夕日モード。 町田辺りで自転車を置いて、電車で帰ることも考えました。 少しでも明るいうちに距離を稼ぎたいので、休まずこぎ続け、何とか家まで戻れました。 資料館を出てから3時間半、迷った割りには早かったです。ひょっとして近道? この日の走行距離は89km。予定オーバーでした。