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テーマ:徒然日記(23492)
カテゴリ:生活
日本時間 今日8月6日は原爆の日です。小さい頃からずっと早朝母と一緒に平和公園まで歩いて無縁仏の祭られている供養塔で手を合わせます。慰霊碑には行きません。5時前 日が昇る前の平和公園はまだ人の姿もまばらで静寂な空気が漂っていました。宗教や宗派を超えて 袈裟を纏ったたくさんの僧侶、シスターや神父様がたくさん集まっていらっしゃるのを見て、子供ながらに 少し緊張し、厳かな気持になったものです。 母が今朝電話で 「今年もインタビューされたよ」と行っていたので、さきほどふらりとオンラインでそのテレビ局の全国ニュースを観てみると、なんと母の顔が。ちゃんと若く映っていたよ! あの朝、一瞬にして母親を失った私の母。母の家は爆心地から徒歩で5分。現在も私の実家があるすぐそばでした。どこで亡くなったのか、遺骨さえも見つかりません。母自身 被爆し、数メートル吹き飛ばされ火傷をしながらも 幸い現在も元気にしています。しかし別の場所で被爆した兄は介護も空しく背中を大火傷して亡くなったそうです。死体と瓦礫の中を逃げたという話を聞いたことはありますが、それ以外全くかたくなに語ることをしない母です。それでも、私が これから先 被爆二世として、後世に語り継いでいくことの使命を感じ、少しずつでも母の悲しく 悲惨な体験を書き留めておきたく、少しずつ話をしてもらおうと思っています。 語り部として世界中に被爆者の声を伝えることを使命としていらっしゃる方もたくさんいます。でも 逆に母は語るということは あの時の体験を再び 体験することになる、それにはあまりに辛すぎるというのです。閉ざして忘れてしまいたいと思っている辛い経験を こじ開けて聞きだすことはできませんが、日本に帰るたびこれから 少しずつでも次の世代の人たちへ微力ではあっても 私が繋いで行きたいと思っています。アメリカ人に私が広島出身であるというと ほとんどの人が はっと息を飲み、「ご家族は亡くなった人がいますか?」と聞きます。戦争は100%してはいけないこと、誰がどう言おうと許されることではありません。でも、戦争に巻き込まれてしまった市民、人間ひとりひとりを憎むべきではありません。だから アメリカの原子爆弾投下を第二次世界大戦終結のための美談、日本を救うための手段と教えられたアメリカ人の心にも、戦争の罪、失われた人やその家族の痛みと悲しみは自分のものとして伝わると思うのです。 原爆投下のドキュメントを見るたびいつも 私は涙をこらえることができません。あの直前まで 祖母は確実に元気で 母もまだ普通の少女で 何もしらず 普段どおりの朝を迎えていたのです。あの一瞬までは・・・・ 時計を巻き戻したい、そればかり繰り返し空しく思うからです。母はあの一瞬で家も家族も 将来の夢も失なったのですから。 十年くらい前まで、まだ母は時々言っていました。「お母さんが いつか戻ってきてくれるかもしんと思っていた」 でも もう生きていたとしても100歳を越え、そう思うことはなくなった様子ですが、祖母がどういう状況で亡くなったか、どこで亡くなったか、それだけは知りたいと思います。そうでなければ 母の心の中のページが閉じられないと考えるからです。江原さ~ん お母さんありがとう。本当に若くてかわいく映っとったよ!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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