深夜放送ラジオの思い出 01 鶴瓶
今は本当にラジオを聞かなくなった。昔はラジオといえば若者の文化のひとつで、テレビは一家に一台しかなく、居間にどんとあり、チャンネル権はお父さんだった。小学生のときは、ドリフや歌番組をみていたが、中学になると部屋に追いやられラジオを聞くしかなった。ぼくが一番好きだったのは、鶴瓶の放送だった。彼が出てきたのは中一かそのくらいでちらほら出ていたが、メインに出てきたのはヤングタウン月曜日だった。前後して近畿放送の日本列島ズバリリクエスト、略してズバリく、当時は近畿放送といい、いまのKBS京都京都は盆地で電波が飛びにくい。神戸の家からだと雑音混じりだった。1974年から1978年まで放送し、その後、ハイヤング京都になったと思う。鶴瓶師匠は、1976年秋から1977年の春の編成まで、火曜日の深夜だった。ヤン月は、1975年10月から82年の三月まで 7年もやって、ヤンタンの人気者だった、桂三枝師匠の勇退で、土曜日の公開録音に移動。1982年から1988年まで担当した。13年間もヤンタンをやり続けた。で、一度ヤンタンが終わりかけたのを惜しむさんま師匠がヤンタン土曜日をやりだし日曜日を1999年から続けている。13年と25年で38年もヤンタンをやってるすごいと思います。ヤンタンにでることは関西でスターへの登竜門で、ここに出ることはすごい名誉であった。鶴瓶師匠のヤン月は、笑いのるつぼで、仁鶴師匠の影響もあり、マシンガンのようにギャグをとばしこんなに面白いやつがおるんや、と、ぼくはすぐに虜になった、鶴瓶師匠のヤン月も人気だったが、鶴光師匠と角さんのヤン木も最高に面白かった。鶴瓶師匠の番組は山のようなはがきがあつまり、毎週何万という投書があった。ほとんどが、ギャグものであった。ギャグベストテンというコーナーがあり、これがまた、放送事故寸前の禁止用語の連発。忘れもしない、「いい子にあったらドッキ!」という、ひまわりむすめの伊藤咲子さんのヒット曲。これを「いい子にあったらボッキ!」海原千里真里という漫才師、当時はかわいい漫才だった。海原せんzりまんZrい といい、大爆笑。しかしながら、ヤンタンの総元締め、おおなべさんの逆鱗に触れ、たしか、三回か二回放送謹慎という処罰を受けた。これも自主的な処置で、おおなべさんは鶴瓶師匠の才能と将来性を買っており、くびにはならなかった。深夜というのは、昔ははやかった、おかんもおとんも12時に寝て真っ暗な家で、蛍光スタンドから光が漏れないように、よこに寝て居るおねいちゃんにもめいわくかからんように、勉強してラジオを聴く、ながら族である。ほとんどが生放送、リアルタイムであり、みんなのおにいさんか友人のようなDJがぼくらのような受験生のために放送をしてくれてるのだ。ヤン月で、あるとき、数年たっただろうか、急に鶴瓶師匠が、こういった。「これから、ゆっくりと普通に話す放送をします」マシンガントークとギャグ満載のやりかたを、個性的な普通の話に変えた。ぼくは、あれ?と思った。鶴瓶師匠が変わった瞬間だった。なんで、変わったのか、わからないが、彼が今成功して君臨してるのはあのときがまず、ひとつのポイントではないかと思う。続くphoto 筆者近影、1977年ごろ千里丘MBSスタジオでわいのわいの90 にて