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引越しが済んですぐ、瞳が熱を出した。
突発性発疹といい、高熱が突然出て、数日続き、熱が下がると同時に 発疹が全身に広がり、数日で消える。子供の誰もが通る道なので 別段心配の要らない病気だ。 引越し直後の最も忙しい時期。それでお祝いのお返しややたまった メールの返事やら何やらはすっかり後回しとなってしまった。 突発性発疹は高熱が出る割には元気があるのが特徴で、 すぐにぴんと来た。とり合えずすぐに瞳を小児科に連れてゆき、 治るまでは入浴を控えさせ、そして普段より沢山抱いてやった。 すぐそんな事が嘘かのように元気になり、先日は 三種混合の注射も済ませた。(勿論泣いた) 母親というものはならなくてはとかなりたいと思わなくとも 状況がそれなりに「らしく」させてゆくものだし、自然と 身についてゆくものだな、と思う。(私のような劣等生でも) いや、人は状況により強制的に母親にさせられてしまうのだ、 と言った方が正しいかもしれない。病気にかかった子供を 放っておく事の出来る親は、ごく一部を除いてはいないだろう。 思うに、子をいっそ放っておきたいという 欲求が芽生える事自体は、なんら異常ではない。 実際に放るのと放りたいと考える事とは別だ。 放ると放りたい、その間にあるものはたかだか薄っぺらい 一枚の皮でしかないのではないか、と思う。 これは育児に限った事ではなく、人生のあらゆる事の 「アリ」と「ナシ」の間はいつだって危うい一枚皮だ。 子を虐待する親をつばを飛ばしながら責め立てるよりは、 明日は我が身と思う方が、余程リアルというものだと思う。 自他共に認める子供嫌いだった私が、今では自分の子供の おむつを替え母乳を与え、あやす。その事実をつくづく可笑しいと 思っているのは、他でもない本人である。 私を支えているのは、瞳の日々の成長と夫の愛情と そしていくつかの生活の楽しみである。 友達の手紙や、音楽や、本や、夫との会話や 冷たく冷えたソーダや、アロマオイルの良い香りや 下らない愛すべき笑い。 母親である自分が全て、でなく、母親である自分、が 自分という人間に、人生に、より広がりを持たせてくれたら 良いなと思いつつ、今日も私は瞳の為の野菜を刻む。 瞳は7ヶ月。フォームは完璧ではないが、床を這いまわり、 行きたいところに行ける。 行きたい所に行ったら良い。私が守るから、 君はせいぜい、世界を楽しみなさい。その世界観は 恐らく今の君だけのものだから、今のうちに存分に 楽しんでおきなさい。 ちょっと、大変だけどね。いいや、大分。 その代わり、少し大きくなったら私達に、 お茶の一杯でも入れて頂戴。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年08月05日 22時38分04秒
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