カテゴリ:介護の手伝い
母は飲み込む機能の衰えを補助するために 食事の前に口と舌のストレッチを しています。 でも認知機能の衰えで自分から自発的にやることは出来ません。 だから、 介護士さんに食事前に誤嚥を防ぐ為の舌のストレッチをするように 声をかけて やって欲しいと頼んだら、 ごえんせい肺炎の予防ということで看護婦さんに伝えたらしいのですが、 メールで契約者である兄のところに メールをしてくれるなと言う意味のメールが来てむかつくことがあった。 兄は別の意味で母のことで連絡があったらメールしてもよいと 受付の方に数日前に言われたことがあったから、 誤嚥について注意してほしいと 要望のメールをしていました。 そして、見舞いにいったわたしも同じように御願いと言う形で 介護士さんに申しでたのですが。 そんなこともあり、 母が映っている写メールがきたのが嬉しく思っていました。 そして、 横浜の歴史に触れる番組の中で 横浜空襲の写真を見たとき、 母のそばに居る間、 まだ病気になる前に 戦時中の事を詳しくきく機会がありました。 そのときに 記憶の中には 臭気などもあって、 其れは悲惨な状態だったと。 きのう、NHKのテレビの中で偶然 横浜空襲後の関内付近の写真を見て 吃驚しました。 母の話が本当で 母の話は大げさではなく 相手を驚かせないように控えめに表現していたものなのが分りました。 いつも遠くを見つめる目で 私が30歳になるごろまで ほとんど話しませんでした。 子供の頃にきいても怖いだけで信じられませんでした。でも番組を見た後 PCで横浜大空襲後の 写真を今日見てみました。 母の行っていた話しは 本当でした。 番組では絶対に出てこないような(たぶん教育的配慮から)当時の写真が 戦争の事実を知らせる為のPCサイトに 幾つか載っておりました。 戦火でなくなった 方々が 炭化して そのままよこたわっていました。 ご冥福お祈りながらその写真を みましたが、 この中を歩いて 20歳で実際にみてしまった母を含め その世代の 方々が 余りにも 悲惨なことで口にすることがなかったのでした。 でも母は私に 強く生きて欲しいから きっと40過ぎた頃に 孫にも伝える為に 自分が本当は女学校の学徒動員で行っていた場所が 爆弾の部品工場だったのを 教えてくれました。 しかし、 その空襲の話は 言葉少なく 半信半疑出来居ていた自分は かなり申し訳ないことをしてきたと思ったのです。 母が強いのは我が強いと思っていたのですが、 沢山のその風景を二十歳でみた母は いやでも確りいきなくてはと 思ったのでしょう。 その沢山の罹災された人々の犠牲の上に自分の生活があったのですから。 母がその当時勤めていた 銀行は 石ずくりでしたから、 焼け残りましたが その丸い形の屋根が 今は歴史博物館になっています。 わたしが腰痛が酷くていかれないときも 娘を連れて 歴史博物館となった 自分の元務めた場所に 70歳代で連れて行ってくれました。 母の中の 底のおくに何か分らないけれど 強いもの 其れは 戦火で焼け後となった ところから始まったそのときの 強い気持ちなんだろうと 思いました。 今日は とっても 重い話になってしまいましたが・・・ こんど、 娘にあったら 祖母は我がままじゃなくて 戦争を乗り越える為の負けん気 だったよって 訂正しておかなくては と思いました。 もっと 真剣にきいて あげれば 良かったです。 70歳後半で 2人だけで話したときには 一応信じたけれど、 写真で見るまで分りませんでした。 日常の普段の程度を超えたものですから。 もう、 教科書の中の時代のひとなんだよねって 茶化しながらきいていた私は ココで 気がついてよかったかも・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.04 22:20:54
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