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【注意】
今日の文章は、理屈っぽい高校2年生が書きそうな文章です。 ぱっと思いついて、書かずにはいられませんでした。 なんか、栗の花みたいにものすごく青臭いにおいがいたしますので、 お嫌いな方は遠慮しておいたほうが身のためです。 また、私は文系中の文系なので、論理的というよりもむしろ観念的な話が多くなってしまうので、 理解不能な部分もあるかもしれませんが、あしからず。 村上春樹の作品の中で、私が一番すきなのが今回の題名でもある『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』です。村上春樹らしい少しぼやけた世界観。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の2つの物語が同時進行して織り成す不思議な世界。興味のある方は読んでみるべし。というか、欲しかったらあげますので、私におっしゃってください。(実際に私に会える方限定) ところで、話は変わりますが、あなたは「世界の終わり」について考えたことがありますか。 私は中学生の終わりから高校生にかけてこの問いについていろいろ考えをめぐらせたことがありました。この問いは、「自分って何?」「何のために生きてるの?」「私が死んだらどうなるの?」「モテててー!」などの、思春期の人々が持ちやすい疑問のひとつであると私は考えています。この問いについて、当時いろいろ考えた結果、私の導き出した結論は「私が死んだら、世界は終わる」というものだった。 だってそうでしょ?この世界を知覚している私自身の喪失は、この世界の喪失と同義なのではないか。世界を世界たらしめている本体である自分が、この世界からいなくなることは、世界が無くなるのと同じことなのではないのか。 この考えには、さまざまな要素が影響している。そのひとつを挙げるならば、小学生・中学生時代と私の音楽人生の基礎を作った「The Bule Hearts」の『世界の真ん中』という歌の歌詞が結構影響している気がする。 朝の光が待てなくて 眠れない夜もあった 朝の光が待てなくて 間違った事もやった 僕が生まれた所が 世界の片隅なのか 誰の上にだって お日様は昇るんだ 川の流れの激しさに 足元がふるえている 燃える炎の厳しさに 足元がふるえている 僕が今見ているのが 世界の片隅なのか いくら捜したって そんな所はない うまくいかない時 死にたい時もある 世界の真ん中で生きてゆくためには 生きるという事に 命をかけてみたい 歴史が始まる前 人はケダモノだった こんな歌詞の歌なのだが(著作権無視です。JASRACさん怒らないでね)、もうこの曲は思春期のもやもやした気持ちを、いつも解消させてくれた、私の人生の中でベスト10に入る曲であるといっても良い。 この歌詞を読んでも分かると思いますが、自分のいるところは世界の片隅ではなく、世界の中心であるといっている。言い換えれば、自分がいるからこそ地球が回っていと言ってもいいような気がするような歌詞です。私は、別にこの歌を根拠にというわけでは無いのですが、なぜか「この世界は私のモノ」なんていう、根拠のない確信みたいなものが心の奥に眠っていた。 周りにいる人たちはすべて自分の人生の脇役で、自分の人生は、主役である「自分」を中心とした壮大なドラマなんじゃないかな?という気さえしていました。だから、私が死んだら、テレビドラマが終わるようにその世界は丸ごと消滅してしまうんじゃないかと思っていました。 まあ、このような考え方には何の制限もないわけで、どのように思おうが自分の勝手だと言ってしまえば、それで終わってしまう議論なのでありますが、この根拠のない自信が大学になるとゆらいできたんです。 その揺らぎの原因は、大学での友人との談笑や、大学で学んだいろんな情報・知識によるものだった。 私は某大学文学部の出身であるので、文学部らしくたっぷりと哲学的なことや、机上の空論とも思える知識を学んだ。そこで「アイデンティティー」について、考える機会があった。 「アイデンティティー」とは日本語に直訳すれば「自己同一性」となり、意味が分かりにくいが、これはつまり「自分らしさ」のことである。当時の私は、自己と他者の区別をどのようにつけるかなんていう、今考えれば、どうでもいいようなそうでもないようなよく分かんない事を、ない頭を絞って考えたり、文献を調べたりしていた。 そこでさかんに議論されたのが、自己と他者の区別において最もよく使用されるのは「差異」であるということだった。「差異」とは簡単に言えば「違い」のことで、自分らしさを表現する場合には、他人とどれだけちがうかを指標にしないとうまく表現することができないということだ。 つまり、自分が自分であることを証明するためには、自分がいかに他人と違うかを証明しなければならない。他人と交わってこそ、自分というものが確立するのだ。 これは私には結構衝撃的な考え方であった。 だって、今まで自分がいるから世界がある。私が認知するから他人がいて、そして世界がある。図式化すれば「自分→他者→世界」であったのが、他人がいないと自分が存在できない、他者の存在が自己の存在を証明すると言われたら、「他人→自分→世界」という図式になってしまう。 これには混乱した。「自分が死ねば世界が終わる」という考えの論理的な根拠は、「自分が死んだら、自分がいることで存在している他者も死ぬ(観念的に)ことになり、自分、他人、世界もろともなくなってしまうというものであったのに、「他人→自分→世界」という図式の上では、自分が死んでも、私にとっての世界が終わるだけで、他人は消滅しない。他人と他人にとっての世界が残ってしまう。 なんかごちゃごちゃになっていて、私の言いたいことが伝わっているのか怪しいが、とにかく、大学でのこの衝撃は私の世界観を大きく変えた。 今では自分が死んでも、世界は通常通り存在し、為替相場は変動し、道路の信号は規則どおりに変わり、あなたたちは普通に生活を送るんだろうなぁ。なんて確信しております。これは別に、私は人生の脇役で、私は世界の片隅に暮らしていて、ひっそりと死んでいくんだろうなぁ。という悲壮感をあらわしているのではない。また、自分はちっぽけな存在で、世界に対しての影響力なんてこれっぽちもないと嘆いているわけでもありません。 私の人生は私一人のものであり、私が主役なのは変わりないが、私が死んでも地球は回り続ける。私が世界を支配しているのではなく、自分と他人みんなで同列に並んで世界を構成している。そのことに気づいただけです。 ただし真理は闇の中。一人一人の心の中にしかない。 長々と意味不明な文章を書いてきましたが、これはあくまでも思春期の脳内討論会のメモです。 昨日高校時代のことを書いたら、ついでにいろいろなことを思い出してしまい、 こんな葛藤もあったなぁ・・・なんて懐かしんでしまったので、ここに記しておいただけです。 ただのひとりごとだと受け止めてください。 よって、これ関する議論・批判には応じませんので。 こんな問題は自分ひとりで寝る前に考えるがよろしい。 今日は、そんな話。 『世界の真ん中』は8曲目です お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年03月27日 23時38分46秒
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