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私が今まで生きてきた、その軌跡をデジタルで保存したら、どれぐらいの容量になるのだろう。
そりゃあ、幼かった頃の父との思い出とか、母との思い出とか、兄弟との思い出とか、 友人、そして、妻となりそうな人(いるの?)との思い出とか、いろいろな思い出がいっぱいで、 デジタルなんかでは保存できないし、第一保存しておくことなんて不可能である。 また、思い出は一つ一つが生々しい感覚を伴ったものであり、 泣くほど痛かったあの思い出、むせるほど笑ったあの思い出、 盗んだバイクで走り出した15の夜、一体何を卒業するのだろうかと悩んだあの思い出などなど、 そんな思い出を2進法のデジタルになんて変換不可能である。 それは真実。永遠の真理である。 しかし、無理にでも、デジタルデータとして保存しておくと、どれぐらいの量になるのだろう。 こんな考えは、加藤秀俊という、偉大な社会学者のエッセイを見て考えたことである。 かの有名な(一部の地域で)加藤秀俊でさえ、今までの著作をデジタル化すると30ギガいくかいかないかぐらいしかないらしい。 30ギガ、と聞くと結構な容量な気もするが、外付けHDD300ギガが3万で買える時代、 30ギガという容量には3000円ぐらいの価値しかない(またまた単純計算)。 まあ、著作をデータベース化しようという作業と、人生自体をデジタル化しようという試みは、 似て非なる作業であり、単純に比較してはまずいのだろうが、 いざ、自分の今までの思い出や、やってきたこと、思ったこと、すべてをデジタル化したときに、 はたして30ギガいくのかな?という疑問がわいたのである。 かの著名な学者でさえ、思考の結晶ともいえる著作をデータ化すると30ギガぐらいしかないのに、 しがない私の生き様をデータ化したら、フロッピー(1メガちょっと)4枚ぐらいで収まってしまうのではないだろうか。 そんな小さな私って・・・ なんて、少し自己嫌悪に陥ってしまう。 別に、悲観しているわけではない。 先にも言ったように、思い出のデジタル化なんて現実不可能な事実だし、 私の脳みそ(心?)に詰まっている思い出は、 今でも目の前にありありと思い出されて、mpge2の非ではないぐらいリアルである。 でも、上の記事を読んだら、無性に自分がちっぽけな気がして、 「あ、あれ。変だな。目からしょっぱい水が出てくるや。これはなんだろう」 なんて、一人コントをしてみたくなるほど、悲しい気持ちになったのも事実である。 私は人生を悟ったわけではないけれど、 どうせ人間なんて、自分の小ささを一生気にしながら生きていくものだろうから、 どうでもいいっちゃ、どうでもいいけどね。 ☆追伸☆ とうとうやってきました。1週間後です。準備はできましたか? 私は、まったくしていません。 というか、あまりする準備つもりはないですが、たまにはなんかしてあげてもいいのかね。 と思ってしまうFlashです。 そんな気持ちになってしまうFlashはコチラ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年05月01日 22時43分18秒
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