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カテゴリ:心の悲鳴
でもさ、世の中に児童虐待ってものが存在する。それって肉体における虐待だけにとどまらないって言うのは多分皆さんうなずく事が出来るんだろうけど、さて、精神的虐待のみのケースは?いじめだって精神的にだけやったって相手を自殺まで追い込む事が出来るよね。親の子に対する虐待も同じ。「これは愛だ」なんて思っている無自覚さんの場合の方が余程ひどかったりもする。なにせ省みるって事がないから。 親って子供が愛情を求める最初の人間でしょ。その人から愛情をもらえなかったとしか思えない場合…たとえ親がそれをいくら愛だと思っていても伝わらない限りは同じ事。まして『愛』なんぞというものとかけ離れたものをいくら注がれたって、子供の人生捻れますわ。親、あるいは親に類する者が愛してくれなけりゃ自分を愛する事なんて覚えられない。誰かが自分を無償で愛してくれていると感じられない限り、人間そうそう自分を受け入れられるものじゃない。 私の実家は父が体が弱かったという事もあって私が生まれる前から宗教づいていた。だから私にとっては来世と神様の存在は目の前の人間並みに当たり前な事だった。 大抵の信仰では神様って傷もなく完全で清らかな方でしょ。そんな方の前へこの『汚れきった私』がもう一つ自殺っておまけまで付けて出る?そんな事できっこない。神様の前では心の底まで裸でしょ。人の目にすらふれさせたくないこの身をどうしてそんな恐ろしい所へ運んでいけるだろう?その時の神様の悲しむ目を見たら私の魂はどうなってしまうだろう。永遠にこの状態のまま、凍り付いてしまうのではないだろうか…。このままこの苦しみを永劫に背負っていける勇気なんてかけらも持ち合わせていなかった。 そのまま生きる事も出来ず、死ぬ事もできずにいたら…多分究極的に私の魂は逃れ場を求めて壊れていくしかなかったと思う。…かなり行きかけていたとも思うし。 でも書いていて…小休止のつもりで書いているせいもあるのかな…感じるのは、人にとってどんなに時というものがやさしいかという事。自分の心を突き破りそうだった痛みをそぅっと抱きしめる事が出来るくらいに変えてくれる。それにはたくさんの人の助けがあって、そして何よりダンさんが受け止めてくれたからこそ歩いて来れた道のりなのだと思う。らせん階段のように同じ所を泣きながら堂々巡りしているようで知らない内に、私に不完全でも『愛する事』の楽しさ・喜びを教えてくれた方々に、顔も知らない名前も知らないあなたに、心の底からお礼を言いたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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