上半身をねっとり覆った汗が出るのをやめると、ルーちはコーヒーを取りに行った。
頭が少し動くようになってきたのであろうか、1000円払って休憩だけする気はなかった。
(元を取るぞー!)
…人間恩知らずなものである。
ただ受け入れてくれて休ませてくれれば有難いと思った心よ、いずこへ? (でかいマグカップ…何度も何度も飲み物を取りに来なくていいように?)
コーヒーはボスだった。いつもネスカフェ一辺倒のルーちは一瞬たじろいだが、
飲んでみれば缶コーヒーとは違って濃く、美味かった。
他にもココアやコーラや烏龍茶などが置いてあり、小腹が空いた時用にスナック菓子も
置いてあったが、ルーちはここでスナック菓子をぼりぼり音立てて食う奴は
やはり異次元物質だろうなと思った。
レジで注文できるたこ焼きなんかの方がずっといい。
うん、たこ焼きはいい、今度元気な時に来たら絶対食おうとルーちは自分に誓った。
さて、ネット喫茶に来てPCいじらないで帰る馬鹿もあるまい。
(いっ…。) ルーちはまたまたレジの店長の所に行った。
「すみませ~ん、最初のパスワードって?」
「ああ、Enter押してもらえればできます。」
「どうも~」 …入店して一時間ほどの会話としては間が抜けている。
ブラウザを立ち上げて自分のブログにつなごうとしたルーちはそこでハタと手を止めた。
…おおい、こういう所ってキーロガーとかいろいろ仕掛けていく奴ばらもいると聞いたが…
ログインは見送りだな。わざわざ楽天のIDとパスを残していったなんて事になったら大変だ。
…あ~面倒くさい、この日本語入力ソフト何?やっぱりIME-2000か。使いにくい~。
ATOKぶち込みたいな~。 (一 一) …
USBメモリにATOKのユーザー辞書と設定入れて来て、インポートしたらアカンやろか…。
ついでにお気に入りも。…汚染の危機に出くわしちゃうかな?
みんなどうやって使っているんだろう?
頭はなんとか回るようになってきたみたいだが、
体の方はまだまだウルトラQの主題歌に取り込まれている。
カロリー補給だ、カロリー補給。
ルーちはマグカップ設置の真意なぞどこふく風と通路を行き来してはコーヒーを飲み続ける。
何度目かの帰りに漫画の棚を覗いてみた。かなり薄暗いので顔を近づけないとタイトルも見えない。
ルーちはドロドロドロドロドロ~ンロロ~ンという脳内BGMを聞きつつ、
ジパングを五冊ほど持ってきた。
他にあっちこっち自分の読みたいものを探す根性がこの日は無い。
…元気な時だったらさぞかし宝島といったところであろうが。
置き引きの注意とかがあったので、お金の入ったバッグを担ぎながら
コーヒーや漫画を取りに行った訳だが…これだけ深海の静けさの中で、体を横にせねば
通れぬ通路で、置き引きが本当に可能なのだろうか…。
実際幽霊のようにすれ違う他の利用者で荷物を持っている人など一人もいない。
そう、それとここでは互いに幽霊のように振る舞うのが最高の礼儀だ。
薄い壁を隔てた隣の人も私から一億光年位離れていると思っておけば間違いないのではないか。
でも面白い所だ。
私の住んでいる地域の中で一番故郷に近い匂いを放っているのに
ここは自分の肉体の存在…音や匂いや感情を発信しちゃいけない場所…。
発信するのはネットを通して、ネットの先に。その場には疲れた体以外何も無い。
友達のブログにメッセージを一通書き、
もう一人の友達にコメントを書いたルーちは、ジパングを手に取った。
瞬間世界が変わる。
まるでネットの海を潜っていて、擬体に帰ってきた草薙素子みたいだ。
漫画は紙の肌触りを持ち、独特の匂いを持って私の肉体の存在をも空間に確定した。
面白い。こんなにお手軽、低料金で攻殻機動隊が味わえる所があるなんて。
と言っても疲れない擬体や超スピードの思考、膨大な記憶などというものとは無縁だが。
でもこれが後数年もして紙のコミックからe-bookに移行していたりしたら…
マトリクスかね…くら…。
しかし元は取れているのだろうか?
三時間で約1000円といったらファミレスでスパとコーヒーより安い。
ドリンクバー・サラダバーというのはファミレスでもなかなか採算が合いにくいものだという。
ルーちのようにメシ代わりに飲み物を飲むような人間の許容人数はどれ位までだ?
その他、人間には無くともPC様には無くてはならない冷房代、電気代、etc.…。
こんなに低料金化して、この商売は続いて行くのだろうか?
三時間はあっという間に過ぎた。
ルーちはIEの履歴を削除して席を立った。
異次元物体が鳴って現実世界への帰還を周りに告げている…。
ファミレスやドトールと違って声も音楽も無いのがこの時のルーちには有難かった。
誰にも構われずひたすらへばっていられるのも有難かった。
故郷、新宿の裏町の匂いも心をほぐしてくれた。
しかし。
こういう雰囲気の場所が住宅街の町中に出てきたというのはどういう事なのか。
なぜ家の居間でなく、ここなのか。
なぜ個室で幽体と肉体を行き来するのか。居間のPC前で私はこんな感覚を体験した事はない。
大所からみて、日本人は何を求めてこういう場所を増やしているのか。
そして私は?
魂に今日出会ったほの暗い銀河を巡らしつつ、ルーちはアスファルトの上に重い足を踏み出した。