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2019.03.09
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カテゴリ:表沙汰
小学校低学年頃、近所の大きな川の変なところではまって死にかけたが、たまたまそこに人がいて助かったことがある。家族に言ったら怒られると思って、誰にも言わなかった。恩人の名前も覚えておらず、顔だけをなんとなく覚えている。

 自分が怪しい運命論に興味を持ち、確率論に対する懐疑的考えが強いのは、こういった奇跡的な出来事のせいかもしれない。

 それよりも覚えているのは、あの時「人生ここまでか」と思って、生きたいという抵抗みたいなのがない状態に一瞬なったことだ。こちらは、自分の人生に考え方としてもっと大きな影響を与えた。
 人間が、こんな気持ちになれるのか、という体験を、何度かしたことがある。しかし特にこの「生への諦念」みたいなこの感情は、死ぬときまでにまた必ず感じたいと思うようになった。

 人は、死への恐怖から働く。死ぬことが怖くなかったら、そこまで生き延びようとは思わないかもしれない。これはプラトンの『パイドン』でソクラテスが言う「哲学者」の定義みたいだ。自分の場合、この川の中での気持ちのせいで、死に対する変な考え方ができてしまった。

 あくせく働いても、どうせ皆死ぬじゃん、みたいな気持ち。おかげでマジメに働けないのである。
 ヒンドゥー教の『バガヴァット・ギーター』や仏教の教義では、「無為(akarma)」みたいな感じで扱われ、「怠惰はよくないぞ!」と諭される、その気分である。
 死にまじかに触れると、何だかそんな無気力が考え方が蔓延してしまうのだろう。人の葬式を通して、「もっと自分の人生を生きよう!」なんて思いはじめる人もいるかもしれない。

 かといって、そういった観点が何か問題が解決しているわけでもない。
 死ぬこと、もとい飢えることに対して強烈な恐怖がある。でも死が怖いのではなく、その空腹という痛みの現実的感覚が怖い。死はむしろその痛みをなくしてくれる。

 そのように、真面目に生きる目的である「飢えをしのぐ」という人生の最大の目的、それを遂行しようとすると、今度は「いつかは死への通過を体験する」が頭をよぎる。
 いつかは死ぬのに、食事はそれをひたすら先延ばしにしているような、そんな感覚を受けてしまう。
 その原因は、「真面目に生きること」に対する「怠惰」というべきなのか。
 自分が全力で努力をしているか、それとも怠惰なのかは、他者の視点が必要だ。でも他者の視点は全て個人の想定に過ぎない。真実がない。何が真実かは、自分が決定するしかない。

 他者の視点の認識が狂った人のことを、人は「狂人」と呼ぶ。そういう意味では、人は多かれ少なかれ必ず「狂人」であり、他者の視点という幻想を真実とみなす力は「狂気」でしかないのだ。





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最終更新日  2019.03.09 19:21:54
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