カテゴリ:表沙汰
肉体は牢獄である、という考え方は、ギリシャ哲学の中心的なテーマのひとつである。頭ではこれがやりたい、こうなりたい、と考えつくけど、肉体はその瞬間にその願望にそった形に変わってはくれない。肉体は頭のなかの考えの自由さについていけない。
肉体の大きな特徴のひとつとして、「病気になる」という特徴がある。病気はさらにひとを不自由にする。そしてその病気を「本当の自分に気づくきっかけ」だとする話もある。 例えば、仕事をやっていて、その仕事がとても嫌で、その気持ちが肉体に現れる。仕事のストレスが、具体的な病気のほか、自律神経失調症みたいな症状とか、湿疹とかを生じさせる。ひどい場合は、ガンとかにも結び付けられる。 そこでは、生きていくうえで前向きなことがらに対して、体が「拒絶」している、みたいな状態にもなる。 仕事でばりばり働けばお金を得られる。お金がなければ飯を食って生き長らえられないので、お金を得ることは健康に対して絶対正義であるどころか必須条件なのだが、その「健康」=「お金を得ること」=「仕事」を「体」が「病気」を用いて拒絶してしまうのである。それが人生の妙だ。 ひどい仕事にはストレスがつきもので、それは明日を生きながらえる飯を与えてはくれるが、寿命は縮ませる。ストレスが体に与える影響はそのように解釈されうる。しかし現実的な法則上でその仕事を捨てることは「すぐに死ぬ」かもしれない代わりに「長生き」が約束される。 そこで、そもそも「長生き」の意味は何だろう?個人的に思うのは、人生死ぬ時、納得していたい、ということだ。死を受け入れる必要がある。「思い残すことはもうない、十分に生き切った」と思えるとき、それはストレスの激しい仕事で日々生きながらえた末にそのストレスに攻撃されて死ぬことからは得られず、それを捨てた先にあるようにも思えるのである。 もうひとつの可能性はある。人生は、どう生きても後悔する、という可能性である。片方の選択肢を選べば、もう片方の選択肢を選んだ未来を後悔する、そうやってそもそも人間はできているのではないか。 だとしたら、「人は後悔する生き物」だ。自分の意志を尊重して生き切った場合、もっと安定した生き方をすればよかった後悔し、安定した生き方を選んだ場合、自分の意志を尊重した生き方をすればよかったと後悔するかもしれない。 そういった「人は後悔する生き物」を超えてくれる生命のダイナミズムみたいなものを、人生に期待してしまう。そういう人間のサガだ、で終わらせたくはない。 人間が「後悔する生き物」なのは、人は常に良くなろうとする「力への意志」があるからだろうか。力への意志とは、すなわち成長への欲求である。ひとは常にレベルアップしていたいのだ。生産的に生きたい、と思う。少しでも多くを学び、外国などの土地を見てまわりたいとかって思う。それは「力への意志」で、権力への意志でもあるし、成長への意志でもあるし、「進化している」というのを人はいつも求めている。 同じニーチェの概念で、「超人」は「毎日同じ日を繰り返すことを、受け入れることができる人」とされる。つまり「力への意志」が全くないのが、「超人」かもしれない。同じ日が繰り返されるということは、そこに成長は全くない。常に一定で、何も「よくならない」。そのように成長が全くなくてもいい、と思える人が「超人」なのだろうか。 実際、「死ぬときに、死を受け入れる」には、成長する必要はそれほどない可能性もある。死ぬときに、特に「これ以上、生きたいというエネルギーを出す必要がない」その然るべきときに、自然と必ず死を受け入れることができるならば。 成長しなければ、何かを得られない、というが幻想であるならば、人生はより自由になれる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.03.12 22:53:40
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