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2019.04.13
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カテゴリ:表沙汰
最も重要なことを、断定的に言ってしまうことは、今の時代はもはや罪に近い。しかし最も重要なことに、結論がでないで、一体何が知識だろうか?一体何が賢さだろうか?

 現代の「賢さ」が何をやっているかといえば、最も敵を作らず、けれども「賢い」「賢くない」上下関係ははっきりさせて、最もうまく言い逃れる方法を考えて、それができないことについては沈黙することだけだ。そうしていくうちに「賢さの鎧」ができていく。
 道に大型車がたくさん走っていると、本当は小型車のほうが事故を起こしづらくて素晴らしいとしても、装甲の頑丈さ的な意味で大型車に乗らざるをえなくなる感じと、「賢さの鎧」はよく似ている。

 人は果たして、死んだあとどうなるのだろうか?

 もし自分が自分の一生のなかで、決して知ることのない場所があるとして、
 その場所は「実存している」のだろうか?

 もし私が「世界は○○である」と断定したとして、
 それに対し他者の意見は「世界は○○ではない」とくるとして、
 私は他者の意識状態になることはないのに、私は「世界は○○ではない」なんて言えるのだろうか?

 そういった重要な議論は、自分のなかで答えを出すしかない。世界は、私が生きたいようには一応、生きられる「汝が世界の立法者である」権利は確かにある。
 でも権利だから、行使するとは限らない。私は生きたいように生きられるが、いつかは死ぬ。生きたいように生きることが、私の死を早め、私が私の死とそこへの痛みを恐れ、その権利は使わないでいる。

 私がその権利を使わないでいるのは現実の「因果関係」を経験論的に推測するからである。私が好きなように生きたら、私はお金を得られない。お金を得られないと、物が食べられず、すなわち、痛みを経て死ぬ。(とはいえ、不自由さを選ぶ因果に従ってさえいれば、死なずにすむとも限らない)

 私が自由に生きることへの恐れは、経験論的伝聞的因果関係への恐れでもある。
 だがその「因果関係」は最も重要なことであるがゆえに「語りえぬもの」なのだ。賢い人たちは、因果関係に関して、ひとまずは常識に沿った考えを述べる。それは最も敵を作らない、当たり障りのないものだからだ。しかし、常識が大きく方向転換したならば、賢い人たちはそれについていくだけだろう。
 賢い人たちのもとに司っていると思われるものは、最終的にはおおよそ自分の主観で決めるしかないことばかりだ。

 因果関係も、私たちが主観でその法則を定義しなければ、決定できない。賢い人たちは言い逃れのように新しい出来事があるたびに意見を変えているばかりで、参考にならない。

 私たちは、自由なことをして、果たして滅亡するのだろうか。因果関係は、そのように告げるとして、しかし因果関係とは他者である。他者である以上、私と他者の意識は区別され、他者の意見には保証がない。私が感じているものは、誰にも言わなくても、確かに真実であるかもしれないが。

 10代の頃は、今の自分がやっていることは、予想もできなかっただろう。未来を類推する因果関係なんて、そんなものかもしれない。

 いい意味で予想できなかった、ならいいんだけど、今はいい意味でとも悪い意味でとも言えないのがどうも。進歩は確実にあるのだろうが、他者にその進歩を伝える手段がない。






 これもまあ、もうだいぶ昔の音楽になるんだな。中学校くらいに、友達がもってたきがするぞ。





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最終更新日  2019.04.13 16:37:24
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