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2019.05.05
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カテゴリ:表沙汰
叩かれて伸びるタイプ、もとい自分がどれだけがんばっても、認めてくれない壁があって、それが家族とか親で、そいつに認めてもらうためにがんばっているうちに、とんでもない実績を得ているタイプ。

 そういう人の思考回路はどうなっているのだろう。受験から学会まで、自分の実績のために闘争している学者は皆そんなものなのだろうが、例えば、ソクラテスが言う哲学者はそうではない。
 ソクラテスが言う哲学者は「死を恐れない」。認めてもらえないのはその人の尊厳の死をあらわす。だから死から復活するために闘争する。しかし深く考えると、尊厳には実体がない。そもそも尊厳なんてどうでもいいやと思ってしまう。

 誰かが認めてくれないというところで、「そもそも、他人に認められるってなんだろう?」と懐疑的になってしまうと、努力する意味がわからなくなる。その思考回路に陥ることがない人は、学者である。哲学よりも闘争心がまさっているから、意味を考えるよりも努力をする。

 この世で、意味を考える事は、何と常軌を逸したことだろう。私たちに試練がやってきたとき、闘争心が駆り立てられるのか、それともその意味を考えてしまうか。それは人間の性格の分岐点である。

 まさに、ジェイムス・ヒルマンの本みたいな感じで「性格が運命をつくる」である。ソクラテスがダイモーンと呼んだ守護霊は性格のことである。人間に憑依して、あれをしろ、これをするな、と指示しているのは、「その人間の先天的性格」である。

 その人の先天的性格が、意味を懐疑することが何よりもまさるタイプか、闘争して勝つことが何よりもまさるタイプか。だいたいは、その人の行動が自分だけでなく他者の闘争を好み、闘争を経験した者をより好むかどうかでもわかる。その闘争は、受験戦争、競技性のあるスポーツ、実績の有無、そういった闘争的感覚があるものならば何でも良い。それに対し、意味の懐疑者は、闘争の意味から考えてしまう。答えはでなくとも。

 この世の多くの人は闘争的である。とりあえず勉強をしようって気になれば他者より優位に立ちたい闘争的な心が刺激されている。心のどこかで、闘争している間は自分が永遠に生きるかのような感覚に陥っている。だが生きる意味とかを考え出すと、そういうモチベーションは結構なくなってしまう。万物は灰に帰る。全ての有機物は鉄になって終わる。

 他人の気を受けると、自分がとりこまれそうになる。それに抵抗し、自分らしさをキープしようとするのも闘争的反応である。他人の気の質によっては、一時的に自分が大変な混乱に陥る。取り込まれるべき境目と、取り込まれるべきでない境目。理性を司る大脳がそれをわかっていても、「種の保存」を司る遺伝子や感情をつかさどる部位はそれがわかっていないときもある。

 大脳だけであったなら、性格を簡単にコントロールできて、運命もまた簡単にコントロールできる。しかし人間の体も人間社会と同じで、意見の違うものたちが自分のなかで共存していて、理性的な意見に遺伝子的な根拠で反論したり感情的な根拠で反論し、体を勝手にあやつったりする。彼らはダイモーンである。

 他人の気だけでなく、土地の気みたいなのにも人は混乱させられる。それらの気を受けて、自分が混乱した時、自分は価値観の変更を迫られている。意味を全く考えない人を見て、意味を考えるのは愚かしいのだろうかと揺らぐ。「立派である」べきかどうかは恐ろしい命題だ。他人に蔑まれて、実際自分という個体にとっては何のデメリットがあるだろうか。とはいえ、人は常に精神的なもののために生きている。金を稼ぐのは飯のため。飯を食うのは空腹という痛みを抑えるため。痛みは感覚的なものだ。痛みとは化学反応だが、ようはそれを感じることが問題だ。特定の感覚が問題だ。感覚は反応であって具体的な物質ではない。具体的な物質ではないところに結局目的はある。この痛みを取り除けるのは誰だろう。痛みを感じた時、意味論者は、闘争者が「戦って勝ってそれよりも優位にたとう」というところで、結局量子論的な話に陥る。「世界を認識しているのは自分だけかもしれない」だから経験論的法則なんてのも信用できていない。





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最終更新日  2019.05.05 09:56:14
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