カテゴリ:表沙汰
ホロスコープをみたとき、占星術の解釈は無限、とまではいかないが、とにかく広い。そのなかからこれは目立っている、と思うものを見つけて、かいつまんで伝える上で、論理というよりは霊感とか絵画を見て分析するような行為が含まれているということは否定できない。
ソフトアスペクトしかないホロスコープになんか最近異常に出会うのだけれど、それを見て人生バラ色のようにはなぜか判断できない。理性だけで判断できるなら、相当にラッキーな人生のはずだが、やはり理性以外の何かが判断材料としてあるのだろう。 ものごとを区別する力は、完全に土星によるものだろう。そういう意味では、霊感というのもある意味土星なのだ。土星は、霊感から最も遠い星の作用ともいわれて、あまつさえ土星が強いと霊感がないとまで言われることすらある。 しかし、例えば人間は、今目で見える風景実は全てを視覚でいったんは享受しているのだが、そのうちのどこに「注目する」かが無意識で働いているから、その場所しか見ていないように思っている。テレビのひとりの役者に注目していても、実はその背景からテレビの枠からテレビの外の部屋の風景まで、自分の視覚という画面にうつしだされた映像はすべて見ている。しかしそのテレビ内およびその中心である「役者」だけを注目するように「区別」あるいは言うなれば「淘汰」しているのである。 この「淘汰」は土星のキーワードだ。特定の場所に注目できなかったら、例えばテレビの映画は見てられない。全て見ていたら、映画は成立しない。プロットに関連のある役者だけを特に注目する能力がなかったら、すなわちその土星の能力がなかったら、映画を集中してみることはできない。人は無意識に、入ってくる情報を淘汰している。ホロスコープを見ることも同じだ。 だから、土星が霊感を縮めるなんてことは決してない。むしろ、やってくる霊感を区別する力になってくれるのだから、土星だって大事にしたほうがいい。 土星がなかったら、霊感の言葉のなかから特に適切なものを取り出して人に与えることができない。古代ギリシャの予言巫女には、必ず巫女の霊感の言葉を解釈する人間がついていた。海王星がその巫女だとしたら、その無限の大海原のような言葉を直感的に解釈できるのは土星である。解釈者がいなくて、巫女だけだと助言は成り立たないのだ。 それで言えば、現代でもエンジェルナンバーとかお告げとかで、街で見る言葉、やたら見る数字のゲマトリア的意味、などにこれからを生きる助言が隠されているというスピ系の思想があるが、前述のギリシャの予言巫女の場所でソクラテスが「汝自身を知れ」という言葉を神殿内で見たというのは、まさに現代のこのスピ系の思想に通じている。 あまつさえ、近現代のスピ系はネオペイガニズムやら神話が現代に生きる知恵になるといった「古典復古運動」であるが、その古代思想との決別の時代を中世ヨーロッパにもたらしたひとつのきっかけであるアウグスティヌス(実際には、その後継者たちが、アウグスティヌスをダシに古代思想を否定したというべきなのだろうが。)は、近所を遊んでいる子供の「とって、読め」という言葉がきこえてきたことをきっかけとして、古代思想の後継者であるマニ教とか関連からキリスト教に本格的に改宗した。これだってソクラテスのそれみたいだし、今の人が好きなお告げみたいなものだ。(もちろん、当時の歴史を考えると、マニ教は別にアンチキリストでもないが、マニ教関連の堕落を根絶し新たに良い宗教をつくるために、宗教改革が必要で、その新しいものとして現代に繋がるタイプのキリスト教が選ばれたというのもあるが…。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.05.08 08:59:44
コメント(0) | コメントを書く |
|