カテゴリ:表沙汰
哲学は現実の形而上学的説明だから現実への対処方法は教えてはくれない。ましてや何百年も世代が違う人間の哲学であればなおさら。
何気に、中途半端な近代哲学よりも古代哲学のほうが現代に訴えかけるものが多いのだが、その理由は古代の言語の意味が今はもう消えてしまって「何とでも解釈できる」という理由、あとは古代の哲学は現代のスピリチュアリズムと同じ理論が混ざり合っているからだ。 哲学が教えてくれない形而上学的対処方法は、もはやスピリチュアリズムの思想の中にあるかどうかというくらいだ。 現実的にものを考えて、ひとが「八方塞がり」なとき。私たちは、今までの「経験」と現実の「常識」そして「物理法則」なんかをあわせて考えると、何をやってもどうあがいても希望がないときがある。 現実的なすべてから見捨てられていて、現実的に考えたら、破滅しかないときがある。そういうとき、希望を持てるとしたら、もはや宗教やスピリチュアリズムの理論しか残らない。 現実であるところの「経験・常識・物理法則」を無視してくれる思想体系だけが、究極の絶望に対して良い答えをもたらしてくれる。 現実法則や現実的な考え方が少しでも染みていたら、それがある限り絶望には対処できない。しかし、ただひとつのあのことを除いて、究極の絶望に対して対処方法がないのである。 その唯一のものとは自殺である。ショーペンハウアーの自殺論は今でも生きている「神の最大の発明は、人間に自ら死ぬ自由を与えたことである」というのは、究極の絶望に対する対処法の、「現実法則下のカテゴリにおいて」唯一の現実的対処法である。自殺以外の選択肢があるならまだ究極の絶望ではなくそれ以外の絶望であるのだろう。 この世の行く末を見たいとか、性的欲求を満たしたいとか、誰にも迷惑をかけたくないとか、そういう気持ちは究極の絶望の前には何の意味ももたない。究極の絶望に対して、現実的な対処は自殺であり、現実的でない対処は「現実的思考」の否定である。 ただし、私たちの「経験・常識・物理法則」がもしすべて嘘だったら、前提がすべて否定されれば、私たちは自殺が最善とはならないのである。究極の絶望のなかでも生きようと思える動機は、もはやスピリチュアリズムのなかでしか見当たらない。 無根拠に「生きていたら、いいことあるよ」というスピリチュアリズム以外には自殺しない理由がない。現実的法則から導き出される全ては自殺を推奨するものだから。そして哲学的思考はむしろスピリチュアリズムを後押しする。「未来はいくらがんばっても知り得ない」し「この世の全ては疑いうる」から、そこには一応論理的整合性もある。 生活に精神的余裕がある人にはスピリチュアリズムなんて何の意味もないことがわかる。現実的法則だけですでに余裕があって満足できるなら、現実的法則を否定する理由もないからだ。そういう人たちにとっては、スピリチュアリズムの存在意義なんてなにひとつない。 けれども現実的法則を否定しなければ生きていく意志すら満たせないひともいる。働きたくても、働かせてもらえない、働いたとしても、十分なお金が得られない、お金が得られなくて、でも空腹は止められなくて、現実的法則下において、破滅していく予定の予測が可能な状況。スピリチュアリズムはなぜかそのような状況下で運命的改善がなされた例を話す。もうあと少しでお金がつきるなあというときに、たまたますごい良い仕事にありつけた、というような話。 その例はほんとうに極端な例かもしれない。10人そういう人がいるなかで、9人は死に、1人はたまたま生き残ったから、その9人は忘れ去られ人に伝えることもできず、しかし1人は人に伝えることができる。そのような状況でしかないのかもしれない。 どの論理が正しいかというよりも個々人によって適切な論理が違うとしか言えないかもしれない。熱血教師のせいで自殺する人もいれば、熱血教師のほうが性に合っている人もいるだろう。幸せは「現象」なのか「精神」なのか。そこに行き着いても、どうも答えはない。現実的法則を否定しなくてもいいような気分のときは幸せなのだろうけど。変化への欲求をかかえたまま、何の変化もないということほど苦しいこともない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.05.13 17:08:56
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