カテゴリ:表沙汰
なぜノスタルジア的な感情が人間にはあるのか。昔のもの、子供時代にみたものは、それに対する愛みたいなのが過剰になる。倦怠期に対する初恋のような。これを思い出補正とも言う。
昔を懐かしむ必要が、なぜ人間にはあるのか?それを考えると、やはり子供があって家庭が欲しいという老いた本能と同じトリガーなのかもしれない。もちろん、皆が皆、それを欲しがるわけではない。ただ、ノスタルジア、思い出補正という形で、そのプログラミングが、人間のうちにあるような気がする。子供時代に対する思い出補正がなければ、子々孫々というところに意義を見出しづらい。 実際のところ、思い出補正という幻影がなければ、子供時代は子供時代で、今の大人時代と同じように苦しいことがたくさんあったはずだ。それを思い出補正という愛がくらませ、子供をまるで愛のかたまりのように大人が感じる。思春期前の子供は同じ年齢の子供に対して母性愛を感じるよりも、ライバル性か友人関係が優先されるだろう。 思い出補正を通して、大人から子供に対してはじめて生じる愛があるのだろう。大人から子供に対する愛には必ずバイアスがかかっているのだ。この無意識的かつ成長の性徴的なバイアスがなければしかし、子供をつくる意義を見つけづらい。 これは人間が、はたまた自我が「個」であるか「集合体」であるかの問題に関わってくる。「自我」をとってみても、自分とはとの部分なのか、わからない。脳は私であるかもしれないが、それは思考しているだけである。例えば、いざというときに緊張してトイレにいくべきでないときにトイレにいきたくなったりする。それは、脳だけの存在であったら絶対にそうはいかない。 脳と腸がそれぞれ他人であるから、脳の支配が及ばない領域である腸が暴走しているのである。脳と腸で別の意思がある。別の意思がある存在は、他者と言うべきであろう。このように、自分のなかで支配できない存在同士がある以上、それらは全部「自分」といえるかどうか。少なくとも、痛覚においては、他人同士であっても運命共同体なのだが。 人間という全体も、同じように「他人」ずつでありながら、何か自分という集合体における自我のように、人間全体における自我のようなものがあるのだろうか。遺伝子などの学問では、特にそういう話が強調される。私たちは、自分と他人を区別している。だがそれは、有性生殖をする多細胞生物だからだろう。無性生殖の生物にとって自分と他人の区別は、いわば経験論・環境の違いのみになるかもしれない。あまり詳しくはないが。 有性生殖という手段を生物が選ぶようになって、男女が分かれ、お互いを求めるようになった。無性生殖にはないものだ。単細胞分裂は、古い細胞を脱ぎ捨て新しい細胞になるイメージもあるのだろうか。だとしたら、それは古い人間が新しい人間を生む、脱皮のようなイメージにもなる。その欲求の根底は、ノスタルジアだろうか。過去を美化し、過去にあたるものを生み出そうとする。実際の過去は、そんなに美しいもんじゃないと、思考は分かっていても、感情は「ノスタルジア」を感じてしまう。これは、生物が新陳代謝的に子を産み、生まれた子が老いればまたその子を産み、と感情にしたがって行動するよう「意思」をプログラミングされたということなのだろうか。 細胞が、有性生殖を選び、男と女が生まれた、だから複雑な問題も生まれた、同じように、新陳代謝的に子を産み、老いたるものは死に、またその子も老いて子を産み、老いたるものは死に、と繰り返すという性質を選んで、多様性は生まれたかもしれないが、生と死の痛みや苦しみが生まれた。まるでパンドラボックスだ。般若心経みたいな話だが、性別もなく、老いることも死ぬこともなく、でもそうだと変化もないかもしれないが、そういう多様性をつくらなければ、苦しみもなかったのに、と神々の黄金時代みたいなのを、懐かしむ、老いた心。世界中の神話が語る、苦しみのなかった黄金時代とは、無性生殖、単細胞生物の時代のことだろうか。 というのも、この曲の歌詞がいいなあと思ったことから。ノスタルジア。daokoさんって、昔はかなりマニアックな曲ってイメージだったけど、最近はどうかな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.06.23 12:26:14
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