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2019.10.17
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カテゴリ:表沙汰
私たちは、他者の苦労を喜び、推奨する。私はそうではないが、多くの人はそうだ。目的の達成ではなく、勉強していることを美徳とする。苦労という名の夢を持ち、苦労のために苦労しているところに美徳を見る。苦労する理由から目をそらし、苦労は美しいとする、現代最大のカルト宗教。そして、苦労した末にいつかやってくる死。死はすべての記憶を洗い流してくれるというのなら、苦労をしてもしなくてもそこで同じにしてはくれる。
 私たちは、苦労という言葉に惑わされてはいまいか。人間は、生きている限り、行為をする。その多くは、基本、破滅的行動だ。死への欲求「デストルドー」というのは、確かにあるかもしれない。人は挑戦することを美徳とするが、それは一歩間違えば死なのだから、死を美徳としているわけだ。安全な生き方は、人として奨励されない。安定に甘んじず、挑戦し、克服し、淘汰のなかで生き残る者となること。これが世界の多くの人の美徳である。私はそうではないが。

 挑戦し、克服し、淘汰を生き残る。これが人類の美徳だとしたら、人は、苦労するために生まれてきていることになる。苦労している者には、苦労していない"ように見える"者への強いルサンチマン・嫉妬がある。だから苦労している者は、苦労していない者を名指しで、卑下する。もちろん、皆が皆ではないが。
 人間はルサンチマンに満ちている。自分が苦労したのだから、おまえも苦労してほしい、といくらかの人は思う。そして、世界はそれでまわっている。というのも、苦労がなくては、人生でないからだ。
 その標語は、受験とか勉強といった現代最強のカルト宗教の原動力となっている。そのカルト宗教に巻き込まれて、教員も、生徒も、苦労をする、自作自演の苦労。畑を耕し、作物が実る喜びではなく、ただただ、頭を回転させて、吐き気を得る。そこで思うのは、人間は何のために存在しているかである。

 挑戦し、克服し、淘汰を生き残るために人間が存在しているという無意識を持っている人は多いだろう。その人は、研究者たちが新しい研究を発表することに期待をするだろう。受験という名目で、皆に一度は研究者の真似事をさせるが、もちろんそんな鍛錬を受けるすべての人間が研究者になるわけではない。この世が研究者だけになったら、地味な労働を行う人間がいなくなり、作物はまともに育たず、世界は破滅である。

 私たちは本当に、挑戦し、克服し、淘汰を生き残るために存在しているというのだろうか。私たちが死んでも、「私が認識できない他者」であるところの私の子孫が存在していれば、私が存在することになるのだろうか?私たちに子孫が存在して、子孫を気にかけることになっているならば、その子孫もまた、同じ感性を持っているなら、自らの子孫のことを気にかけなければならないし、その子孫のまた子孫もまた・・・悪循環である。このつながりを、勇敢な誰かが切る必要があるのだろうか。

 しかしこの世で自殺は霊的にも俗的にも禁止されている。なぜだろう?幼い頃、死にかけたとき、自分は死の瞬間の諦めのようなものを感じたことがある。そのせいか、死が悪いものには思えない。ただ生の、痛みが悪いものなのだ。自殺の際には、この世でやりたかったことやり残したこと、の後悔のエネルギーがどかっと来るようだ。
 事故死とかではこないのだろうか?霊的なものはそこに区別をつくるのだが、その根拠はよくわからない。生まれた以上は、どれほど辛くても、生は貫き、病魔あるいは事故、老いといった他者に殺されなければならない。というのが霊的な考えの主流である。

 挑戦し、克服することが人間の存在意義なら、その相当数の、挑戦し、死んでいったものがたちがいることになる。人間は、常に「他者は他者」であるから、他者に対してそういうことが言えるのである。もし他者の気持ちになれたら、世界平和は実現され得るだろう。しかし人間の意識同士にはバリケードがある。ある程度、そのバリケードが薄い人間もいる。「場所の悪い気」を察知し、体調まで悪くなる人間もいれば、何も影響を受けない人もいる。でもそれは特殊な形ので、その人と別のタイプの人同士では価値観があまりにも違いすぎて、お互いのバリケードがより硬くなったりもするのだが。

 私たちは「仲間」を探すことを至上としている。この世は皆仲間ではなく、むしろ敵だらけである。時に仲間が敵にかわってしまうこともある。お互いの相性が、皆違うからだ。「ソウルメイト」の考え方は、プラトンの『饗宴』のアリストパネスの演説にまで遡れるであろう。私たちに、世界への希望を持てるとしたら、敵だらけの蟻地獄のなかから、仲間を探すことくらいかもしれない。

 ところでやはり、私たちは一体何のために存在しているのだろうか?多くの人が、ジェネレーションという視点を持っていることは、不思議なものだ。なぜなら、現代の常識では、その人の死後、その人が世界のいく末を見ることはできないからである。だから、自分の後生、ジェネレーションなんて考えてもしょうがないのである。魂が、輪廻転生するというのなら、話は全く別だ。それなら、世界をなんとかしなければならない。下手なところに転生したら、えらいことになるからだ。その輪廻転生を終わらせようというのが、仏教だが、その方法は、いまだかつて明確になったことはない。

 私たちは一体何のために存在しているのか、その結論を是非持ちたいものだ。その時点で、結論を下すことはできる。しかし、この世は、どんな結論も疑いうるようにできている。科学は、実証主義は永遠に完成しないのである。私たち全体が集団で「世界の進化」を達成しようとしているのなら、それを観測する主体とは一体何だ?一応、私という存在は、人間全体ではなく、人間の中の個体である。だとしたら、人間全体という存在を、観測するような存在とは何だ。もしそれが人間としての「善」であるなら、私が個体である理由とは何だ。

 自分の中にある鬱と向き合うと、その苦しみから、「なぜ私は存在するのか」を考えるようになる。でも答えがでない。世界には何かなすべきことが存在し、それは私であってもこなせるというのなら、何も問題はないだろう。それをこなせないなら、何か別の方法を考えたりする。しかしその「なすべきこと」がまず変幻自在で、何かわからない。霊的な教えはそれは「自分が心からワクワクするもの」とだいたいそこで言う。ワクワクするようなことは確かに、挑戦し、克服し、淘汰から生き残るようなやる気を出させてくれるだろう。
 ただ、個人的にこの世の原理を表しているなあという言葉にブリーチの藍染隊長の「あこがれは、理解から最も遠い存在だよ」というのがある。ワクワクしているというのは、あこがれている状態で、まだ理解できないということだ。そして理解すると、ワクワクがなくなって、鬱になる。自分を騙していると、鬱は解消するだろう。またあるいはそもそも「将来に対する漠然とした不安」が鬱なのだから、将来の食費だけでも保証でもされれば、急にとはいえないが、ゆっくりと鬱は解消するだろう。
 私たちの恐れはすべて痛みである。空腹という痛み、怪我という痛み、病気という痛み。「それまでできたことが、できない」というのが病気、老いの核心で、それらがきたとき、今普通の生活しているその「アタリマエ」をとんでもなく感謝するようになる。理解からあこがれへとグレードダウンしたからである。
 私もまた、死をまだ理解していない。まだあこがれの段階である。この世でいいことがないなら、死んだら何かいいことがあるんじゃないか、天国を思想体系中にもつ宗教の心理でもある。今までできたことができなくなったとき、人はそれまでのアタリマエを感謝し、憧れるようになる。でもだからといって、今を大事にしようとしても、1秒1秒は止められはしない。
 メメント・モリというラテン語は「もうすぐ死ぬというのなら、何がしたい?」みたいな意味にも解釈はできるかもしれない。ラテン語が使われていた時代の発想っぽくはないので、現代において、のみであるが。何をするのだろうか。もうすぐ死ぬなら、仕事なんて、もう誰もやらないだろう。キャリアなんて、もう誰も積まないだろう。それはある意味、苦労が人間の本質ではないという証なんじゃないのか。ただ、現代の社畜みたいなレベルで苦労というカルト宗教に盲信な人々は、明日破滅するとしても冗談抜きで出社するようなのもいるんじゃないか、というレベルで無思考な無感覚な人間も、たまにいそうで怖い。

 死んだ後、少なくとも私の肉体はなくなるが、それでも残る何かがあるなら、肉体を持つ今よりもずっと軽いものだろうか。つ





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最終更新日  2019.10.18 12:34:44
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