338586 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X
2019.10.27
XML
カテゴリ:表沙汰
安楽死に関するテレビ番組を夜中に見ていた。実際は、それについて人が語るところはここではないのだろうが、最も印象深かったのは、眠るように人が死んでいくところを見れたところだ。

 多くの病気は、こんなにも安らかに死ねないだろう。いわゆる「よくできた人」は「人に苦しまないでほしい」と願いながら「長生きしてほしい」と思っていたりして、慈悲深いと人は言うだろうが、そのふたつは矛盾することだって多々ある。場合によっては、どちらかひとつしか取れない。

 これほどまでに安らかに死ねるなら、人は皆そうなってしまえば幸せなのに、と思う。このような安楽死の技術がある限り、ある意味、人間の最大の幸福の手段は、もうすでに明かされているようなものだ。

 しかしそこで思うのは、人類がこの世から滅んだとき、また別の人類があらわれるのではないかということだ。いまはこれは、スピリチュアル的思考ではなく、唯物論的思考をベースにして考えを進めていくと、ここにいきつく。
 それは、人間が滅んでも、別の生物が人間と同じ役割に立ち、世界を解明し支配しようとする。そして今の人類と同じく貧乏くじに苦しむ人と幸福に飽き足りない人が生まれる。富はうまく分配されず、どこかで「悪魔の見えざる手」のようなものが世界経済に働きかける。

 きっと、そういう役割の存在が、この世の物理法則のなかにプログラムとして組み込まれてるのだろう、と思う。まさにそれで、人類という立場もまた、プログラムなのだ。全生物か、あるいは森羅万象全てに、何か欲望、「力への意思」、憧れのようなものがプログラムとして仕組まれている。
 それは「私には欠けているものがあるので、何かがほしい」というプログラムである。すべてに組み込まれたこのプログラムを前提に、世界は動いている。

 プラトンが『饗宴』でディオティマとソクラテスの会話でなされた「エロース」の話のようなものだ。ある意味、ニーチェの「力への意志」にも似ているのだろうか。
 実際、「私に欠けている、それがほしい」という気持ちがなければ、ビックバンもないというか、この世はずっと静止しているだろう。ディオティマがいうように「神々は完全で満ち足りているので、哲学することもなく、何も欲することもありません」的なことを。

 しかしこの世はいわばその「エロース」すなわち何かを欲する気持ちがすべてに備わっており、すべての生物は、その意志を少なからずもって生きている。あるいは、生きているということがそれなのだ。ということは、それは同時に「進化しようとする」気持ちでもある。進化しようとする気持ちは生き甲斐になる。だから人は、学校の勉強は嫌でも、何かそのうちいろいろ勉強したくなる。仕事が生き甲斐という人は、何か仕事をしているというそれ自体が、何か進化している気分になっているということでもある。

 すべての生物に備わっているわけなので、人間の今の気持ちが、人間がいなくなったあと、他の生物が同じ気持ちを感じるほどに「進化」していても不思議ではない。
 もしそうなると、人間がいなくなっても、全ては結局同じことである。人間が理性を「進化」させ、今の現状、このようなことを思うようになった。そして、唯物論の世界では「安楽死」が最もこの世の価値あるもののように思えてくる。そして、それを遂行することは正義となるだろう。「未来に、何があるかわからない」と色々言われても、あてにはならず、少なくともこれによって私が、これ以上苦しまないようになるのだから。
 この「安楽死は最大の幸福」を否定できる力は数学的確率論、この2019年現在の物理法則、唯物論に矛盾しない世界の常識、それにそった経験論、そういった学校の知識とも矛盾しない世間一般世俗的アタリマエのもののなかにはもはや何もない。外れ者の思想であるスピリチュアルには、これを否定することができる論理がいくらかあるだろう。しかしそれは例えば大きな病院でその話をきけるような常識的論理ではない。

 ともかく、私たちがこのように理性を発達させ、その最終的な結論として、「一切皆苦」に気づき、世界が動いていないということが最も幸福だと言うようになる。そしてもしその考えに基づいて、人類が皆安楽死したとしても、別の生物がまた人間と同じような進化をとげ、最終的に同じく生きていることは一切皆苦であるとして、また滅ぶ。
 それらは「私に欠けているから、ほしい」という進化の最果てでゼロになるのを繰り返すことなのである。私たちがそこから脱却するには、何があればいいだろうか。それはすなわち「進化への欲求」がなくなることだろう。それは、すべての細胞ひとつひとつに組み込まれているプログラムである。この世を成立させている原因である。このプログラムのせいで、このような結果になる、まったくひどい物理法則だが、その法則も「悪法も法である」と言ってしまうのだろうか。

「欲望」を制御できる人は聖人であると、ヒンドゥー教でも仏教でも言われるだろう。しかし、果たしてそのような人がいるのだろうか。この世の大前提プログラムに抵抗できるような人が。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.10.27 15:47:21
コメント(0) | コメントを書く


PR

サイド自由欄

設定されていません。

© Rakuten Group, Inc.
X