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2019.11.19
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カテゴリ:表沙汰
哲学を学ぶ上で、占星術の9室という感覚は、最も重要なものだ。もともと、占星術の9室自体は、射手座を表し、哲学それ自体の意味がある。そこから派生して、宗教、主義主張の戦い、外国、大学、も同時に意味する。

 宗教、哲学、外国、大学その四つが同じものとして取り扱われるのには意味がある。私たちが、哲学や外国や大学に憧れるとき、それは宗教になっているのだから。哲学と接点を持つ人はそれほど多いわけではないが、外国や大学と接点を持つ人は割と多いはず。

 外国よりも、大学のほうがより宗教性がわかりやすい。私たちは「大学」に憧れる。受験は、「憧れ」によって成り立ち、憧れのためにお金を惜しまない人から、塾や大学は金と子供の生きる大事な時間を奪う。自分らしく生きる大事な時間を奪っていることもあるし、悪いシステムのなかでも自分らしく生きることができる人もいる。

 しかし、あの大学に入りたい、という気持ちには、まず憧れがあり、同時に「憧れは理解から最も遠い感情」なのである。憧れているということは、それを理解していない。理解したら、憧れることができないから。でも、大学に入ってみないと、大学がどういうところか、理解できないんだな。大学に入らないと、大学という憧れが払拭できないんだな。

 親は子供に勉強を奨励するが、そこにはまず勉強という名のカルト宗教にすでにはまっているのである。大学に入って、じゃあ、それで人生は幸せになるのか?そんなわけがない。偏差値の高い大学に入ったほうがその後の人生の幸福が保証されると、なぜ言えるのか?そこには宗教的な論理の飛躍が存在している。そしてそれは、そう思い込ませる洗脳なのである。

 大学進学率がどんどん上がってきて、大学は形骸化していく。なぜなら、教員数は増えず、生徒数がどんどん増えていくわけなのだから。ひとつの授業に対して、学生の数はどんどん増える。ということは、手が行き届かないということである。
 教員に対する学生数が増えていくとどうなるだろうか?1対1の授業なら、学びの効率は最大で、そこから学ぶ人が増えれば増えるほど、「対話」ではなく「一方的な押し付け」「一方的な話」だけが教育になっていく。すなわち、それは小中高と変わらない。違いがあるとしたら、大学に入ればそれより上の受験勉強がなくなるだけで。無意味な時間の浪費である。

 将来就く仕事のための序章になるような教育ができればそりゃいいのだが、だって「勉強」は多くのひとにとって人間が生きているための絶対条件じゃないんだから、直接役に立つわけじゃない。少なくとも、高校以降の知識は万人が持つ必要のないものだ。
 むしろ一番問題なのは、そういったよりハイレベルな知識が本当に必要な人のための学びの席が、その知識が生涯必要ないような人に占領されているという現状でもある。

 宗教的な「ありがたみ」が勉強を通して感じる人もいるだろう。しかしその態度から感じられるのは中世の「自分で自分を傷つけて、苦難を通してありがたみを受け取ろうとするキリスト教徒」たちと同じ元型だ。

 勉強は苦しみで、「苦しみには見返りがつきまとう」という「カルト宗教的思考」がこの世にはある。若いうちは、特にそうである。しかし、なんということでしょう、実はこの世の本質は「苦しみに対する見返り」ではないのです!
 この世は「苦しまなければならない」苦しまなければ立派ではない、と皆思い込んでいる。そう、思い込んでいれば、この世はそうなるように確かにデザインされております。だから、苦しみたければ苦しめばいい。苦しみというメガネを通して世界を見れば、世界は苦しみで満ちている。でも別のメガネを通して見れば、世界はその別のもので満ちている。

 ひとびとは、そこでなぜ苦しみという名の色眼鏡を選ぶのだろう?苦しんだ方がエライという優越感、ルサンチマンもある。それが肥大化して、無意識に押し込まれ、もはやアタリマエに意識されなくなってしまったのだ。
 カルト宗教の恐ろしさは、何か勧誘がきて「あ、これはカルト宗教だな」と思える時には全く心配はいらない。対象化さえできれば、カルト宗教は存在できないのだ。でも、私たちの日常のごくごくアタリマエに潜み、テレビもネットも周囲の友達みんなもその思想に生きているとき、それをカルト宗教だとすら認識できない。そのときカルト宗教は成立するのだ。何かを名指しして「お、あれはカルト宗教だな」と言えるとき、それはカルト宗教の力を持たないが、それすら認識できないとき、カルト宗教の最大の力が発揮されている。そこでいえば、現代、誰も「勉強」を疑わない。学校の先生も疑わないし、両親も疑わない、学生も疑わない。皆洗脳されているのである。

 勉強の苦しさに反応して、良心が囁く「こんなことして、将来何になるのだろう?この世には、もっと楽しいことが、いっぱいあるのに!」そう思うと、勉強が何も頭に入らない。
 当然だ!なぜなら、その受験科目は、将来役に立つ知識じゃないんだから。本当に人生に必要な知識は、詰め込む必要もなく頭に入ってくる。だから仕事になればできるときはできるじゃないか。
 頭に入ってこない段階で、それが楽しくない段階で、人生のためになる知識ではないと気づくべきである。皆がこの精神を大事にできれば、それこそ学びが必要な人、学びが快楽になれる人へ学びを提供するというシステムができるのに、勉強がカルト宗教化していて、勉強が必要ないひとまで勉強して分母数を無意味に大きくするから、勉強が本当に必要な人に適切に席が回ってこないのである。

 勉強する人の勉強の苦しみを直接経験するわけではない他者は、自分は勉強の苦しみを受けないからといってより一層勉強を子供に押し付けようとしたりする。その姿を、カルト宗教的と言わずして、なんというべきだろう。

 それもこれも「苦労しなければ立派ではない病」なのである。キリスト教の聖書というより、ひとつの人類の普遍的無意識と心理的パターンを表した神話物語として、そこで「カインとアベル」の話を想起させられる。
 アベルとカインが同じように苦労して作物を育て、神にそれを捧げた。しかしそのうち、神はアベルには「苦労の報酬」を支払い、カインには支払わなかった。それを恨んで、カインはアベルを殺した。

 世界はそのカインのような無意識でできている。神という言葉が現代風にそぐわないなら、それは運命の動きの力のようなものとして解釈すれば良い。
 カインとアベルは同じくらいに努力をした。だがアベルはその努力が報われ、カインは報われなかった。大学に当てはめてみると、もっとわかりやすい。カインとアベルは同じくらい勉強した。だがアベルは実力以上の大学に合格し、カインは実力以下の大学にも合格できなかった。
 そしてはカインはアベルを恨むようになった。

 この話のなかには、「努力したら、報われる」という法則を求める人間の無意識が存在している。そしてその法則に反することが起きた時、人は凶暴になり、怒り、他者に損害を与える。人々の間で連鎖して、損害を与え合う。勉強には、その力がある。他者へ怒りをぶちまけられなければ、自ら死を選ぶという強烈な事実でもって、私の死を認識した他者に私の怒りと悲しみをわからせたいという欲求がひとには生まれることもある。

  人の原点に「わかってもらいたい」がある。9室にはその原動力があり、わかってもらえなかった恨みもまた、9室の力である。あれは宗教だ、というのも「私の意見をわかってもらいたい」という原動力がある。経験論的に築かれた自分の価値観に反するものや、過去の恨み、努力と結果の不釣り合いの恨みがつのりつのった対象に対して、「おまえは間違っている」という意見をわかってもらいたい、という欲求もまた、9室的衝動である。

 古代から、宗教同士で「お前は間違っている、俺は正しい」という意見のぶつかり合いがずっと続いてきた。現代でももちろん「科学・非科学」「教養・無教養」などの間でのレベルでも、それは起きている。先ほどのように、見えない対象を祭り上げて、何かをカルト宗教と呼ぶ、そんなことを人間は昔から繰り返してきたし、今でもそうだ。
 そこでは、お互いにもっともらしい意見をつくりあげて戦わせるが、そこに確信的意見などない。どんな意見もこねくりまわした屁理屈ばかりだから。簡単な言葉を難しく言うことで優位に立とうとする人も言えば、声の勢いで優位に立とうする人もいる。なんとかして相手の悪いところをひねり出そうと努力している。ただそれだけの違いなのである。

 すべては、「お互いにわかり合いたい」という原動力がある。私たちが個別の存在たらしめ、人間たらしめているのは「他者との隔離」にある。相手の気持ちがわからない。それが現世の特徴である。そこではじめて、「お互いにわかり合いたい」という衝動が生まれる。平和的であれ、暴力的であれ。相手の気持ちがわかったら、わかりあいたいなんて気持ちになることもない。それに憧れることもない。これもまた、かつては全てがひとつであったことへの、何か郷愁のような衝動だと言える。





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最終更新日  2019.11.19 12:53:18
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