カテゴリ:表沙汰
子供が言う「勉強なんかして、何になるの?」という問いかけは、実に鋭く、この世の真実を見通している。大人たちは、「若い頃の勉強=将来の幸福」という宗教にはまっていて、疑うことすらできないので、それに対して「そんなこと言ってないで、勉強しなさい」と言うのである。この姿を、カルト宗教以外の何と言えるだろうか?
中学の中盤くらいまでの勉強は、将来にどんな仕事につくにせよある程度役にたつ可能性が高いのでいいとしよう、しかしその先が問題である。そもそも大人になって、高校以降の学びのどれほどが役に立っているだろうか。科学分野の仕事や教員の仕事はある程度役にたつだろう。しかし教員の仕事は「勉強宗教」の宣教師・司祭・牧師のようなものであって、自作自演に近い。 文章を読んだり、何かを考え発表したりできるような多少なり創造的な教養科目は、人間の無意識の教育に良い影響を与えるだろう。家庭科や技術、競争や古めかしいドラマの真似事の熱血授業ではなく肉体的健康の為の筋トレ的な体育のようなものは将来必ず役にたつだろう。なぜなら人間の生活と密接に関わっているからである。 料理を作ったり、料理がどのような素材によってつくられているか、作物はどのように育つか。それも含め、人間の肉体の健康とは何か。それは数学とか偽物の高校世界史なんかよりもずっと大事な人間としての常識のはずである。 無機質な為政者の名や真実かどうかもわからない年数、ものの言い換えが得意なだけの哲学者たちを覚えるただの言葉遊びという名の歴史よりも、農業を知ることのほうが、人間の歴史をずっと深く理解できるだろう。 しかし現状は、そういったことと関係ない知識を詰め込まされ、脳という名のHDDを余計なデータでいっぱいにし、本当に大事なプログラムやシステムをインストールする容量すらなくなる。そのようにして無思考状態が形成される。 無思考状態、それはカルト宗教にとって最も望ましい人間のあり方である。 だからこそ、「勉強なんかして、何になるの?」という言葉は実に本質を突いていると言えるのだ。逆に、そういうことを言えない子供たちは実に危険だろう。もちろん、勉強が将来何の役にたつかわからないから、そう言えるのだが、実際真実とは、勉強が何のためにあるのか、それは人間に格差という無意識を植え付け、格差というものが存在すると思い込ませるためにある。 このようなシステムの起源を、カインとアベルの神話に辿ることができる。努力をして、結果、得られるものに関して、自分と他人を比べて嫉妬するのである。 勉強、受験戦争、そこから生まれるもっとも重要なものは、格差である。テストの点数の差、合格不合格の差、そういった格差を見せつけられる。すると、高い点数を得たものは低い点数に対して低い人間という認識を作り出し、逆に低い点数を得たものは高い点数に対して高い人間という認識を作り出す。そこからすべての、学者たちのいう「ルサンチマン」、普通の言葉で言えば「嫉妬心」というものが生まれる 高い人から低い人への嫉妬心もあれば、低い人から高い人への嫉妬心もある。高い点数の人間は、低い点数の人間が成功するのを恨むだろうし、逆も全く一緒である。そしてそこには「憧れは理解から最も遠い存在である」という原理がよくはたらき、より一層それを強めるのだ。 「勉強なんかして、何になるの?」と聞かれれば、「それはね、塾産業や大学産業を儲けさせるシステムの構築と同時に、社会において高い者も低い者も苦しむような格差社会を作るためだよ」と答えるべきなのである。 私たちは、昔の人々の宗教のあり方を見下したりするが、受験と大学という名の宗教においては私たちもどうせ変わらない。彼らが自らの信条を疑うことができないように、現代も勉強という常識的正義を疑うことができない人があまりにも多いのである。(そのうちにある程度、本物の正義も含まれてるからではあるが ) そしてそれは「憧れ」である限り「理解」できないからだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.11.30 11:30:06
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