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2019.12.19
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カテゴリ:表沙汰
私たちの人生において、苦しみが存在するという事実はなんなのだろうか。まずは、ひととひとが競争するから、苦しみが生まれる。そこは正直、自作自演なのだ。
 競合し、勝ったものには栄誉かモノを与える。支配権を与える。勝ったものは、他者をある程度自由自在にできる。負けたものは、従わざるを得ない。勝ったものたちの間で、そういうシステムを引き継ぐ。人々に信条や判断基準を植え付けることでそれを維持する。その役割を持つメディアは、昔で言えば宗教の中心のことだ。その宗教の定義を作り出す勝者たる支配層たち。
 競合で勝ったものがその宗教の定義をつくる力を得る。そしてそれが各界に浸透する。いわゆる偏差値の高い大学の人材は、支配層として各界に偏在しているのだから。
 そこで、やはり競合するというシステムを維持する。すなわち、受験である。だが、彼ら自身だって、受験は辛いものじゃなかったんだろうか?やはり自作自演だ。

 競合し、勝者と敗者をつくりだす。上位者と下位をつくりだす。別に、そんなものなくたっていい。でも、なぜか人間は格差というものをつくりたがる。幸せな人間と、不幸せな人間をつくりたがる。それは幸せな人間にも不幸せな人間にも備わっている本能である。生きていることが、もっともくだらないと思うのは、この本能に直面したときだ。社会がまずそれでなりたっているが、それだけじゃない。ちょっとしたゲームをやったりしても、勝者と敗者ができる。でもそのゲームを楽しいと思うのだから、その瞬間に格差という本能が備わっていることを確認してしまうのである。

 格差という本能はしかし、進化という本能にも結合するということもわかる。何か憧れがなければ、人は今の状態を変えようとしないからだ。それがないなら、進化はない。格差があって、上に行きたいという気持ちがなければ、別に動こうともしない。

 けれども別に、進化という行為を肯定する気にも自分はなれない。そんなことして、なんになる?憧れがあっても、でもなんか気持ちはその憧れのほうじゃなくて、別の遠くにいってしまうのだ。集中することができない。なぜあんなにがんばれるのだろう?別に苦しまなくたっていいじゃないか?なんて思ってしまうものだから。
 というより、人生で何をしたとしても、それがどのように裁かれるかは、知る由もない。普通の人間が観察できる範囲内では、どんな偉人でもどんな格差における上位者でも、いつかは死ぬ。いつかは死ぬと考えると、格差なんてなくなってしまう。死んだ後、もし偉人の葬儀がとんでもなく盛大に行われるとしよう、しかしその偉人は死んでいるのだから、自分の壮大な葬儀をどうやって見ることができるのだろう?幽霊の存在を肯定するならば、話は別かもしれないが。それも、生前と全く感覚が変わらない幽霊の状態を。

 陰謀論とかというより、私たちの本能が、その陰謀論の内容であるところのような格差をつくっていることが見て取れるのである。なんてくだらないんだ、と思いつつ、じゃあそれがなくなるには、どうすればよいか。人間がいなくなったら、きっとまた別の動物が、その本能に従って、人間社会のようなものをつくってしまうのでは、と思う。じゃあ生物自体よくないんだ、と思いつつも、この世の仕組みが生物が自然生成されてしまう原理だとしたら、いつかは人間社会が結局またできてしまう。
 生物が生まれる確率がなんかすごい低いといっても、時間制限がなかったら低くても関係ないだろう。競合本能を乗り越える。それはどういうことだろう。私たちの本能に、私たちがNOと言う力。例えば、ウィルス駆除のソフトウェアが、自らウィルス駆除機能を捨てることができる、というようなものだ。

 昔の仏教徒とかは、そういう本能を乗り越えられたら、幸せになれますよ、と簡単に言う。ニルヴァーナとはそういうことなのだが、どうやってニルヴァーナにいけばいいのか。生きながら死んでいるようになるには、どうすればいいのか。別に社会に格差があったって構わない。ただ、自分の中の本能に格差への欲求、力への意志が存在していることはどうしても許せない。生物でありたくないということかもしれない。ニルヴァーナに行きたいということかもしれない。抗うつ剤みたいな何かそういう本能を抑える力を持った薬でも飲めば、そうなるのだろうか。いつも、生命という構造への疑問にまでさかのぼってしまう。人生なんてもういやだ、もう2度と人間に、はたまた生物自体に生まれないですむには、どうすればいいのか?古代インドの人たちがしていた探究だ。

 本能は、自分の中の他者だ。自分がそれを捨てたがっているのだから。けれども、生理現象は自分の都合に関係なく、やってくる。本能のない人生、なんと素敵なのだろう。欲しいも手に入れたいものないから、味気ないというかもしれない。でも飢えているよりはずっとましである。
 たくさんの勉強をした。するとわかったことは、満足な豚は、飢えているソクラテスよりずっとましでだってことだ。

「満足な豚より、飢えているソクラテスのほうがましである」といったイギリスの哲学者は、まさに飢えているのだ。格差への欲求、力への意志に従っているのだ。知識をカルト宗教的に崇拝する憧れに飢えているものにありがちな態度だ。憧れは、理解から最も遠い感情だよ。





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最終更新日  2019.12.19 21:28:16
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