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2001年9月6日、私のソーホーでの写真のグループ展のオープニングに、彼女はまた一人で来てくれた。しかし終わったあと、一緒に帰ろうとせず、グループの一人の男性写真家と気が合ったのか道ばたで座り込んで話していた。そして同月11日朝、テロ事件が起こった。その日の午後に彼女に電話をすると、住んでいるビルの屋上から煙があがるのを一部始終見たといい、病院に献血のボランティアに行ってくると言っていた。その後、同年の11月に、私がひどく体調を壊したとき、わざわざ私の顔を見にうちまできてくれた。それからしばらく私の体調のせいで、彼女とは電話で話すことはあっても会うことはなかった。2003年の春に私が数分間、テレビに出ることになった時、彼女はわざわざ自分の友人に頼んでビデオ撮りをしてくれた。その後、私が日本語のエッセイの新刊に載せるネタを探しているというと、彼女はいろいろ面白い話があるから、遊びに来て欲しいと私を誘った。当時、彼女は中国人女性のルームメイトと二人で住んでいた。彼女は「面白いニューヨークのエピソード」と称して、友人がエレベーターでキャサリン・ヘップバーンに出くわした話を含め、次々にいろいろな話をしてくれた。でもどこか精神の安定を欠いたようなうつろな目をしているのが気になった。
その後、私が2005年と2006年に芝居の公演をやったときに、彼女は共通の友人たちと一緒に見に来てくれた。その当時、彼女は小柄な白人男性の彼氏と、中国人女性のルームメイトの3人で一緒に住んでいた。その彼は2006年の私の写真展に彼女と一緒に来てくれた。上下ともに歯がほとんどなく、赤ら顔でいかにもアル中という雰囲気の50代の男性で、見たところはボヘミアンというか、60年代のヒッピー乞食のような外見の人だった。同じビルに住む女性と離婚したばかりだと言っていた。職業はパートのトラック運転手で、昼間寝て夜働くとかで、私が訪れるとベッドでうつぶせになって寝ていることが多かった。その頃、彼女が私の芝居の英語をニューヨークの会話調に直してあげようというので、うちの近所のカフェで会ったことがあった。その時、彼女はワインが飲みたいと言って、私がほとんど飲まないというのにボトルでシャブリを注文するのだった。そして30分ごとに通りにタバコを吸いに出て行くのだった。その時の彼女の話では、田舎の母親が70歳を過ぎて持病があり、「もう先が長くない。クリスマスに帰ってきてくれ」と言われていると言う。しかし、仕事をほとんどしていない彼女は田舎に帰る飛行機代もない。帰れたとしても、夜中に窓を開け放す習慣の母と同じ家で寝るのは無理だし、姉の婚家にも泊まれないし、ホテルも近隣になく、車もないので街から通うこともできない。第一、ホテルに泊まる資金もないと言う。その頃、共通の友人から聞いた話では、当時、彼女は生活費をほぼすべて同居の彼氏に負担してもらっていた。「彼をどう思う?」と彼女に聴かれたので、良く分からないが自由なボヘミアンのようなタイプだと思うと答えると、彼女は、「でも彼には歯がないのよ」とさげすんだように言った。アルコール中毒で上下とも、全部抜け落ちてしまったらしい。でも歯医者で治療をするように頼んでも言うことをきかないという。あれでは田舎に帰るにしても、「みっともなくて一緒に連れて行けない、母親にはとても会わせられない」、そう彼女は真面目な顔で言った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年05月02日 21時40分49秒
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