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5月15日、夜7時に彼女のビルにあれ以来初めて行った。共通の友人のアパートに行くと、彼女の部屋を整理するにあたって、私にマイケル・ジャクソンのCDを取っておいてくれたという。他に彼女にサイン入りで贈った自著も返してもらった。
4月14日、午後7時15分、このビルの屋上からだったという。その数分前に彼女は例の同居の男性が肝臓の病気で短期入院していた病院に、決行のことを電話で告げていたという。その男性はすぐに警察に電話をし、警察官が彼女の部屋を訪れた時、もうすでに遅かった。カギのかかっていない部屋の机には彼女の遺書があったという。「自分自身に失望した。I'm a big disappointment to myself. 」と遺書にあったという。屋上にはフェンスがあり、そこを登ってビルの裏庭に飛び降りたとのこと。メガネが現場に残っていたという。 共通の友人はすっかり憔悴していた。もちろん、彼女自身以外の誰のせいでもない。過去数年間の彼女の変わりようには友達のほとんどが去る結果となっていた。彼女は仕事を長くしておらず、同居の男性のサポートで暮らしていたという。しかし、同居の男性が体を壊して入院を繰り返して以来、ルームメイトの家賃収入を生活費にあて、家賃が三ヶ月も滞り、退去命令が大家から来ていたとのこと。もちろん居住権があるし、20年も同じ場所で暮らしてきた彼女は裁判で勝つ可能性も高かった。しかも血栓症の持病があり、生活保護も申請していたというから彼女は有利だったろう。しかし彼女は人に借金を頼む方向に進んでいた。そして数人からは確かに数千ドルが届いていたという。しかし、それはすべて彼女が決行した後だった。 その日、彼女の長年の親友だったという女性が共通の友人の家に来て、初めて話をした。その人も彼女を去ったうちの一人だった。そしてその人はひどく怒っていた。その人に言わせると、彼女は20代から自分の経済的立場を超えたイリュージョンの中に住んでいたという。通勤にタクシーを使うこともたびたびで、まるで自分にかなりの収入があるかのように、回りの人間に印象づける出費の仕方だった。しかし実態は、その人も彼女も、テンプのオフィスヘルプにすぎず、決して裕福ではなかったのだ。しかし彼女は、マスコミ関係に勤める高収入の友人が多かったせいか、自分もその世界にいるかのように振る舞う癖があったという。 それは見栄からかもしれない。しかし彼女はけっしてハードワーカーでも上昇志向の持ち主でもなかった。80年代半ばに大学を出てNYに来て以来。彼女はフルタイムでの仕事はほとんどせず、だいたいがテンプのオフィスヘルプだった。ダンサーとしてのキャリアを積むためという訳でもなかった。ダンサーとしてステージに立つことは無関心で、週に数回レッスンだけを受けて満足しているだけだった。彼女の人生のゴールは何だったのか? 高収入の男性とデートし、結婚することにも彼女は熱心ではなかった。いや、彼女は常に異性のパートナーを求めていた。パートナーなしの期間はほとんどなかった。しかし、選ぶ相手は自分より立場も外見も収入も劣った男性が多かった。その人は私と違って、彼女と付き合いが深く、一緒にパーティのような場にも多く行っただけに、彼女の男性へのアプローチの仕方をかなり批判していた。彼女の自尊心の低さ、それは両親ともにアルコール中毒でDVだったという環境が影響したのだろうか? 彼女が仕事をしなくなったことについて、その人はこう言った。「私たちは毎日、つまらない仕事でも続けないと食べていけない。テンプの秘書やオフィスヘルプのような仕事は20代の女性がひしめき、そのうちに30代、40代と年をかさねるにつけ、職場にいずらくなることもある。それでも、それを放棄して仕事を止めてしまったら生きることも放棄してしまうことになる」。50歳の誕生日が近づいていた彼女は、職場に自分の場所を見つけることができなかったのか。彼女はニューヨークに最初に来た20代半ばのとき、大きなテレビ会社の秘書の仕事を得たという。ハンサムな若いボーイフレンドと同棲し、その頃の彼女は心身ともにエネルギーがあったに違いない。そしてその頃、映画を作ろうとしたそうだ。しかし、その夢はそうそうに諦めたらしい。何が彼女をそれほど早々とギブアップさせたのだろう。 共通の友人も言った。「私たちの多くはこのニューヨークで何らかの夢を持ってやって来て、いずれはその夢がささやかにかなうか、あるいは全くかなわないことを知る。ダンサーもアーチストも音楽家も、日々の暮らしに追いまくられて、本業以外のことで四苦八苦しながら年を取っていくのがほとんどだ。私の弟も大学を卒業して著名なミュージシャンのバンドに参加し、世界ツアーの機会を得た。しかしそれはほんの2年で終わって、あとはミュージック・ストアで売り子をしているだけだ。でもだからといって生きるのを止める人はいない。それは回りの人間への裏切り行為で、最悪だ」。 彼女の老いた母親のショックは大変なものだという。母親より先に逝きたくなかったと遺書に書いていた彼女。なぜどうして、今、この時に逝く必要があったのだろう。しかもこのような形で。 その後、彼女の部屋は友人たちによって、整理され、その中に彼女が資料を集めていたという狂牛病のファイルもたくさんあったという。少しは書き始めていたのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年05月24日 06時12分13秒
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