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「大阪へ」
月曜の夜に大阪の実家に行くことにし、早朝にホテルをチェックアウトする。その日の朝10時には大学病院に着く。私の症状は2-3ヶ月は東京に滞在するのでないと、10日ほどの滞在ではレーザー治療はアフターケアも必要で無理だと言われる。他の皮膚科でセカンドオピニオンを聞けとも言われた。とりあえず、首にできていたイボをメスで切り取ってもらうことにする。麻酔を受けて速効で施術。そのままガーゼを当てて絆創膏をして終わり。国民健康保険なしなので料金は初診料も入れてかなりかかった。高いといえば高いが日本の保険がないので仕方がない。それでもNYの医者よりは安く、腕は確かだった。久々に健康診断もしていこうかと思ったが、私立の医大病院のせいか基本的な人間ドックでもかなりの値段だったので止めた。 そこから新宿駅に出て吉祥寺にあるネットで見つけた皮膚科にセカンドオピニオンを聴きに行くことにした。駅前の小ぎれいなビルにあるそのクリニックの先生はあまり感じが良くなかった。どちらかというと米国在住の口数の多そうな患者を受けたくないという雰囲気で、しきりとアメリカでの治療を進められた。どうやらアメリカで研修を受けたことがあるらしい。見積もり料金も他と比較してかなり高かった。この先生とは気が合いそうにないと察してそこを出る。そのまま中央線で東京駅に出て、午後5時の新幹線「のぞみ」に乗り、わずか2時間半で新大阪に到着した。 新幹線というと私にとっては東京ー新大阪三時間十分の「ひかり」か「こだま」だが、今は2時間半の「のぞみ」らしい。車内はまるで航空機内のようなデザインで、席はゆったりとしており、テレビさえあったらまるきり飛行機に乗っているようだ。売り子さんもCAのようなコスチュームとヘアスタイルで、物腰も静かで洗練されている。新大阪から北大阪急行という地下鉄でニュータウンの駅まで行ったが、大阪の人は歩いている人にぶつかるように向かってくるようで少し怖かった。 実家には一週間ほど滞在した。思えば私がこのニュータウンの街に住んだのは中学半ばから高卒までのわずか5年間だけだった。この街は実家が家を建てて移り住んだ70年代初頭、20代-40代までの若い夫婦と中学生以下の幼い子供たちで賑わっていた。そのニュータウンも、30年以上を経た今はゴーストタウンのように人気がなかった。昼も夜も道を歩いている人がほとんどいないのだ。いたとしても、似たような雰囲気の60代から70代以上の老人男女ばかりだ。分譲地から歩道橋を渡った団地の中を行っても人気がないことは同じ。公園で遊んでいる子供もほとんど見ない。子供の声もしない。死んだ街のようだ。少子化のせいだろうか。分譲地の一角にある実家も含めて、若かった夫婦の子供たちは成長して家を出、結婚してよそに移り、ニュータウンの家に残ったのは70過ぎの老夫婦ばかりという印象だ。母が言うには、ご近所でも高齢の旦那さんやら奥さんやら、最近は一人、また一人と亡くなっているらしい。 一戸建ての高齢者住まいは物騒だし、子供が独立したら土地付きの家を売り、マンションに移り住む人も結構いるらしい。70年代にみんながあこがれた最新式のダイワハウスもミサワホームもナショナルハウスも老朽化して地震や雨漏りで補強しないとどうしようもなくなり、うちのセントラルヒーティングもとっくに壊れたとかで家の中はひどく寒い。近隣センターの当時としては洒落たショッピングセンターも人気がまばらだ。戦前からの木造の古い町が新鮮な魅力を保っているのに比べ、70年代に築かれた近代都市「ニュータウン」というのは人口が増加して土地が活性化しないかぎり、老朽マンション同様にさびれたメッキのように廃れていくものなのだろうか。 うちの隣に大学教授の家があり、そこの息子さんは私と中学が同じだったが、当時は幼稚園児だった末の娘さんは英国人と結婚したという。中学時代に一度、門口で遊んであげたら、「おねえちゃん」と懐いてしまい、勝手にうちに上がり込んで私の部屋のドアをトントン叩いて遊ぼうとせがんだお嬢ちゃんも、もう40歳過ぎなのか。そういえば、私の卒業した中学はまだあったが、府立高校は少子化のあおりで閉校、近接高校との合併が行われ、校名も変わると聞いた。当時はできたての新設校で特に思い入れもないが、日本の街の移り変わりの早さには驚かされる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年05月25日 11時45分47秒
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