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2008年05月26日
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「東京に戻る」

yasu

東京に戻って同じホテルにチェックインしてから、亀戸にあるネットで見つけた皮膚科にセカンドオピニオンを聴きに行くことにした。そこの先生は他と違って治療をすすめてくれた。今日すぐにテストで1ショット照射をして、それを元に一週間後に10ショットの照射をし、様子を見て半年ー1年後にもう一度来れば良いという。結果は人によるが8割は成功する。しない場合もあるからそれも承知するという承諾書にサインをさせられた。一回目で駄目なら再診料金なしで再度、半年後に再照射すればよいという。10ショットの値段は他より手頃だった。せっかく来たんだし、どうせならとやってもらうことに決めた。一発のレーザーを受けて患部に絆創膏を当てられる。痛みは感じない。

この治療のためにアメリカに帰る便を数日延期することになった。結局、延期便は予約できたが、$170の超過金を取られた。ホテル代もかさむので、その夜から同じホテルのシングルでなく6人部屋のバンクベッドに移動した。ユースホステルより小ぎれいだったし、一泊3200円だからかなりの倹約となる。同室者は欧米のバックパッカーの若い女性ばかり。ただ、テレビがないのでひどく寂しく感じた。その夜、池袋東口のジュンク堂に行き、自分の本が書棚に入っているのを確認。アメリカのバーンズ&ノーブルと似た大型書店で立ち読み歓迎なのか、いすとテーブルがあちこちにあった。面白そうな芸術書に散財しそうだった。その後、友人と会って立ち食いそばと回転寿司に立ち寄る。コンビニのおにぎりやシュークリーム、肉屋のコロッケや屋台のおでん、石焼き芋もそうだが、貧乏な学生だった頃からの、こういう気取りのない食べ物が一番なじみがあり懐かしかった。


翌朝、大学病院に再診に行った。その後、そこから靖国通りという大通りに沿って歩いた。そのうちにJRの市ヶ谷駅に行き着き、さらに靖国神社が近い事が分かったので行ってみることにした。靖国神社に行ったのは生まれて初めてだった。昔、東京に住んでいた頃、神社は近所の小さい祠に行くくらいで、明治神宮にさえ行ったことがなかった。入ってみると靖国神社は特にめずらしい雰囲気でなく、大きいだけで普通の神社に近いと思った。ただ、その側に併設してある遊就館(ゆうしゅうかん)という施設がなかなか凄かった。

靖国神社付属の遊就館(ゆうしゅうかん)には、日本の歴史の紹介とともに主に大戦で使われた兵器や戦争からみの器材、資料が多く展示されていた。パネルの歴史説明も、近世から黒船到来、日本の開国、南西戦争、日清日露、第一次大戦くらいまでは学習意欲を持って興味深く見れたが、日華事変から「大東亜戦争(太平洋戦争)」の始まりの説明に至ると、中高の歴史の教科書を逆転するような、あれれ~? と思う内容が続々と出てきたのだ。一言で言うと、日本はぜんぜん悪くなくて、悪いのは全部欧米で、日本はやむを得なく戦争に突入したーー欧米のアジア支配から、アジアを解放するために大東亜共栄圏をつくり、アジアが協力して欧米に対抗しようという戦略だったと、解説されていた。

映像ホールでは1時間に一回、映画「私たちは忘れない」(50分)というドキュメンタリー風教育映画(大東亜戦争賛美映画?)のようなものを上映していた。ナレーターがかなりの絶叫調の女性の声で、いったい誰だろうと思ってキャストを見ると、なんとベテラン女優の上村香子さんだった。昔のしっとりとした着物姿のイメージしかなかったので、このナレーションにはかなり驚いた。夫君である劇団四季の浜畑謙吉さんの名前もあったのでさらに驚いた。新劇は民衆劇場と言われたくらいで、昔から左翼が多いと思ってたから。(お仕事と割り切ってのことかもしれないが)役者さんとしてのキャリアには関係しないのだろうか。

とにかく親が戦中派で戦争を嫌悪しており、親にも教師にも日本の過去の過ちを繰り返し伝えられてきた、戦後の民主教育をどっぷり受けた団塊世代(私はその最後尾の方)にはショッキングな場所だった。イノセントな今時の若者には、十分説得力のある、インパクトの強い展示かもしれない。今の日本の若い人は我々の世代より素直には国旗掲揚、国歌斉唱と同じくこの場所を受け入れるかもしれない。まあ、自分だって、国のために戦って亡くなった英霊の奉納された神社に詣でることにはなんの抵抗も感じなかったのも事実。自分の国のために我が身を犠牲にして死んだ人々だし。敬意を表さないとしても軽視する理由もない。歴史の解釈を押しつける部分さえなければ、ここに来て、戦争に参加した人々の膨大な記録を観察するのは興味深いと思う。当時の兵器や器材、飛行機、蒸気機関車なども一見の価値あり。遊就館の売店に行くと、書籍も見事なほどに同系統のものが集まっていた。

膨大な「英霊遺品」の展示品は妻や幼い子供たちへの手紙とかもあるが、血書とか血染めの遺品とか、ヘビーな内容もあって見てるだけで疲れた。中には子供たちへの絵手紙のようなユーモラスなものもあった。その中で福生飛行場で事故死した、来栖三郎 駐米大使を父にアメリカ人の母を持つ、ハーフの来栖良大尉の写真に興味をもつ。顔がまるきりアメリカ人で、この外観で日本兵でいるのはかなり大変だったろう。戦死でなくて事故死、出撃前に仲間の三式戦(飛燕)のプロペラに巻き込まれ殉職というのが、何とも言えない。






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最終更新日  2008年05月26日 05時56分14秒



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