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2008年08月06日
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American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer
by Kai Bird and Martin J. Sherwin

J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日 - 1967年2月18日)の伝記。ユダヤ系アメリカ人の物理学者。
第二次世界大戦当時、ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。しかし、はじめて核兵器を産み出した当人でありながら、戦後には核兵器に反対の立場を取るようになる。
第二次世界大戦のさなか、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった。戦後は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。

冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃を与える。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された1953年。これらの事実から、機密安全保持疑惑で、公職を追放された。また私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた。

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簡単に読んだだけだが、かなりコンプレックスなパーソナリティ。物理の天才でありながら対人関係が苦手で、子供たちはエキセントリックな妻の餌食となり、娘は自殺、息子は縁を切っていく。
一方、女性には魅力を発揮し、結婚しながら愛人も数人いたという。
原爆の成功から栄光に輝きながら、マッカーシーの赤狩りで矢面にたち、抑圧される。
原爆製造に対する科学者としての罪悪感はなかったが、戦争で使用されたことに対しては1960年の日本訪問でこういっている。

"It isn't that I don't feel bad,"
"It is that I don't feel worse tonight than I did last night."

この人が私の今住んでいるビルの隣のビルの11階に、大学卒業まで家族と住んでいたと知ったときは、ちょっとビックリした。ワンフロア全部を一家族で住んでいたというから、かなり裕福なユダヤ移民だったようだ。

昔見た映画「ファットマンとリトルボーイ」というのは原爆開発のマンハッタンプロジェクトの話だったが、この人の伝記でもあったことが分かった。





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最終更新日  2008年08月06日 15時11分16秒



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