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「スリラー」など世界的ヒット曲で知られる米人気歌手マイケル・ジャクソンさんが25日、ロサンゼルスで死去した。50歳。
家族や米メディアによると、ジャクソンさんは心不全とみられる症状でロスの自宅で倒れ、25日正午(日本時間26日午前4時)すぎ、救急隊が到着。既に呼吸ができない状態で、搬送先のカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)付属病院で、同2時26分に死亡確認された。7月にはロンドンで公演を行う予定だったが、5月に主催者が延期を発表。健康問題が取りざたされていた。 ジャクソンさんは1958年、米インディアナ州ゲーリー生まれ。69年に兄弟5人で結成した「ジャクソン・ファイブ」のリードボーカルとしてデビュー。その後、ソロ活動を始め80年代以降、大ヒットを連発し世界的スターとなった。「ビート・イット」「ビリー・ジーン」などを含む82年のアルバム「スリラー」は全世界で1億枚以上を売り上げ、世界で最も売れたアルバムとしてギネスブックに認定された。その後も「バッド」などヒット曲を出し続けた。84年、米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞で8部門を制覇。生涯で計13部門を獲得した。85年にはアフリカ飢餓救済のチャリティーで、故レイ・チャールズさんなど米音楽界の大御所が集結した「ウィー・アー・ザ・ワールド」制作の中心となった。 94年にエルビス・プレスリーの娘リサ・マリーさんと結婚したが、96年に離婚。同年に再婚したが約3年で破局した。子供が3人いる。2003年には自宅兼遊戯施設だった「ネバーランド」で少年らに性的虐待をしたなどとして米国で子供への性的虐待罪に問われ、05年に無罪評決を勝ち取ったが、金銭問題などを抱え、本格的な公演活動をしていなかった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 最初聞いたときはジョークかと思ったら、本当だった。マイケルの大ファンだった友人が去年なくなり、彼女の持っていたマイケルのCDを形見分けでもらった。友人は1958年10月生まれ、50歳になる前に逝ってしまったが、同年8月生まれのマイケルは50歳の誕生日を迎えていた。 私にとってマイケルは完全に過去の人だった。 数年前、マイケルとマドンナについて書きかけたエッセイがここにある。 「マドンナとマイケル」 シンガーのマドンナとマイケル・ジャクソンにはひとつの共通点がある。二人は1958年8月生まれの同い年なのだ。そして、私も同じ年に生まれた。そのせいか、日本にいる頃はそうでもなかったが、こちらに来てから妙に親しみを持って二人を見ることが多かった。 ただし、この二人ほど、イメージがこの20年間で逆方向に向いた人はいなかったように思う。 マイケルは私が東京にいてダンスに夢中になっていたころ、「スリラー」の世界的大ヒットで人気が絶頂だった。85年にグラミー賞を受賞したテレビ中継も見たが、彼はまさに「スーパースター」の名にふさわしい格好のよさと、輝きを持っていた。鼻筋を整形してまっすぐにしたことは知れ渡っていたが、それを非難する人は目立たなかった。むしろ、丸い、黒人らしい大きな鼻を小さくしたことで、彼の顔はスペイン系の色の浅黒い少年のように見え、美しくなったと思った。というか、それ以前の彼の顔を、ポップミュージックにうとい私はほとんど知らなかった。マイケルは、ジャクソンファイブという兄弟のグループで幼い頃からスターだったが、彼の存在は日本では、同じ兄弟グループのオズモンドブラザーズほどには目立たなかった。どちらかというと、通好みの地味な存在だったように思う。 80年代前半から半ば、ジャズダンスが第一次の大ブームで、私も毎日のようにスタジオに通って、真剣にプロを目指してがんばっていたのだが、振り付けで使われる曲の少なくとも20-30%は必ず、「スリラー」だったように思う。どの曲も乗りが良くて、踊っていて最高の気分に浸れた。ダンススタジオの発表会などでも、必ず「スリラー」が登場していた。MTVもようやくはやりだした頃で、スリラーのイメージビデオはマイケルの振付けた、ムーンウオークや背中でクルクル回るブレイクダンスとともに、大変なブームになっていた。 一方、マドンナの方はまだシンガーとしては新人で、「ライクアバージン」がようやくヒットしたばかりだった。彼女の名前を知ったのは、ショークラブで踊っていたときに、シンガーが彼女の物まねをして「ライクアバージン」を歌ったからにすぎない。 その後、80年代後半にアメリカに来た当時、マドンナはようやくポピュラーなシンガーとして、というより、次々とカメレオンのようにイメージチェンジをしていくポップシンガーとして名を成し始めていた。大学で知り合った友達がそのころイーストビレッジに住んでいて、マドンナが数年前まで住んでいたというアパートにいた。それは決してきれいで新しい建物ではなかった。エレベーターもないロフトのような建物だった。その頃知り合ったアメリカ人は、たいていマドンナのことを、「ノータレント」「才能がない」「マーケティングが上手いだけ」と言っていた。たしかに、彼女は個性的なスタイルを次々と作り出しては、自分を最大限にビジュアルなイメージとして注目を集めていた。彼女はダンサーとして出発しただけに、いろいろと共感するところも多かった。 さて、アメリカに来てショックだったのは、マイケルの評判がひどく悪いことだった。整形のことで、彼を「クレージー」と称する人は数多く、日本やヨーロッパの方が彼を好意的にスーパースターとして見ていることも分かった。そして、アルバムを一つ発表するごとに、マイケルの整形は極端にエスカレートしていくのだった。確か、アルバム「BAD」のあたりだったと思うが、友人に言わせると、彼はもはや黒人ではない、ヒスパニック系の顔だと言っていた。そして、どんどん、黒い肌は浅黒い肌になり、やがて白人ようなピンクにまで変わってしまう。鼻はもはや形骸をとどめないほどに小さくなってしまうのだった。この状況でも、日本やヨーロッパではまだファンが熱狂的だった。でも、このアメリカでは、彼は大人になりそこねたピーターパン、子供としか交流できない異常者という評判だった。彼のことを「きちがい」「気持ち悪い」「病気」という人も多かった。 一方、それほどシンガーとして才能に恵まれていないマドンナの方は一向に勢いが衰えなかった。(続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年06月26日 16時21分30秒
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