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すぐに翌朝の全日空を予約し、前回より遙かにスムーズに成田まで来ることができた。しかしそこで台風がきていて成田で予定の飛行機が発たず、一つあとの便に乗ってようやっと伊丹に着き、9月1日の夜遅くに自宅に着いた。
全日空で隣の席になったのが中学生くらいの黒人ハーフの女の子だった。とても人なつこくて親切な子だったが、CAが次から次へとこの子をかまいに来る。どうやらこの子の父親が米人で英語教室を日本で開いており、そこの生徒だった女性がCAになってこの便にいるということがわかった。この子が途中でぐったりしてきて、成田に着いた頃には立ち上がれないほどになっていた。CAさんたちは彼女に車いすを手配して伊丹行きの搭乗口までの長い廊下を運んでいた。この全日空のCAさんたちだが、とにかく若くて細くて美人揃いなのに驚いた。でも髪型が全員同じお団子で見分けがつかない。誰に何を頼んだのかも分からなくなってしまうほどだった。 さて、実家に着くと母しかおらず、父は和室に祭壇がしつらえられ、その横のベッドに寝かされていた。特殊な製法で遺体を日持ちさせるということで、まるで生きているようだった。化粧もきれいにされ、機内で見た「おくりびと」の世界のようだった。母が言うには、死去は30日朝で、ふと気がつくとバイタルサインがなかったということで、まったく苦しむこともなかったらしい。 通夜が3日で葬式が4日だということで、自分が思っていたより遅いので驚いた。2日は本家の従姉妹や姉や兄が来て、死亡広告をだしたせいか、あちこちから電話がかかってきていた。社葬のため大層大きな通夜と葬式になり、葬儀場に何百人という人が来るという。大人になってから日本で葬式になど出たことがない私には想像もつかなかった。私は翌朝早く、人が来る前に父の写真を撮って現像しておいた。父の体は清められてきれいに整えられ、金色のファブリックに覆われてもはや何者かになっていた。だから接写しても少しも怖れも罪悪感も感じなかった。きれいなお顔だった。十分生きた人だから何も怖さがなかった。 葬儀場・通夜の会場は中学の体育館のような広さで、片面はひな壇になっていて本物の白菊が一面にさしてあった。大きな父の写真は誰がどこから見ても視線が合う不思議な写真だった。祭壇の前にはロングテーブルが置かれ、4人が一度に焼香ができるようになっていた。遺族席に座っていると、端っこのせいか焼香する人々がどんどん会釈していくのでそれに応えるためにこちらも会釈を返さねばならなかった。それがひっきりなしに1時間以上続いた。 翌日の葬儀では市長さんが来た。焼香のあと、故人の生涯がナレーションで流れた。それからお坊さんが5人、楽器を演奏しながら入場してきて、お経の間も鈴や笙の生演奏があった。お坊さんのお経を見ていておかしくなってきた。もうとにかくすべてが大げさで、信じられないほどに大がかりなお葬式だった。じっと座ってお坊さんたちのパフォーマンスを見、父の生涯がナレーションでプロの声優に読まれているのを聞いているうちに、舞台劇を見てるような気がして仕方がなかった。 最後に棺のフタを開けて花を入れる儀式というのはいつから始まったんだろう。キリスト教の真似だろうか。棺の中には好物のおまんじゅう、社員の人が作ってくれた千羽鶴、自伝などが入れられた。従姉妹のK子ちゃんは嗚咽していた。 従姉妹のK子ちゃんは結婚してから大変な苦労をして若い頃の体重の2倍になっていた。でも性格が素直で良い子のままだった。子供の頃、うちに泊まりに来たとき、父が彼女にもチョコレートかなにかお土産をくれたのが嬉しかったと言っていた。 私は泣かないと決めていたが、棺に花を入れる頃で泣きたくなった。 式の間中、私は父の写真に話しかけていた。「私はアーチストとしてアメリカで生きるよ」、そんなことを考えていた。父と私は親子と言うにはすれ違いが多く、子どもの頃から二人で出かけたり、話すこともほとんどなかった。いつからそうなったのか、なぜそうなったのかも考えていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年02月02日 20時29分21秒
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