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【ニューヨーク共同】1860年6月にニューヨークを訪れた日本初の遣米使節団の150周年を記念する特別展 「サムライ・イン・ニューヨーク」の開幕式が24日、ニューヨーク市博物館で行われた。今年、ニューヨークでは使節団を再現する「サムライ・パレード」な ど各種記念行事が行われており、特別展はメーンイベントの一つ。
開幕式では25日からの一般公開に先立ち、関係者やメディア向けの内覧会も開かれた。サラ・ヘンリー副館長は「使節団訪問はニューヨークが国際都市となる上で重要な意味を持っていた」と説明した。 会場には使節団の様子を伝える当時の新聞記事や写真など89点を展示。ペリー提督の写真をあしらった扇子や歓迎のために使われた日米の国旗など珍しいものもある。特別展は10月11日まで。 使節団は「万延元年の遣米使節団」として知られ、日米修好通商条約の批准書を携えてサンフランシスコ、ワシントンなどを経て、ニューヨーク入り。ブロードウェーを行進した際は約50万人の市民が出迎えたという。 http://www.mcny.org/exhibitions/current/Samurai-in-New-York.html ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー これは個人的に興味があっていろいろとリサーチしているテーマなので、昨日行ってみた。ニューヨーク市博物館は五番街の103ストリートというちょっと離れたところにある。常設展と企画展があるらしく、特別展 「サムライ・イン・ニューヨーク」は二階の二部屋ほどで行われていた。思ったより小規模。展示されていたのはサムライたちの肖像写真、当時の絵入り新聞記事、サイン、ブキャナン大統領のメダル、記念品、ハリス領事の手書きの通商条約の書類、など。TOMMYと呼ばれて人気者だった16歳の通訳。立石斧次郎の写真が大きなパネルにして壁にいくつか飾ってあった。あと、彼をテーマにした歌「トミーポルカ」の楽譜があった。トミー以外では、加藤素毛という従者の描いた気球の絵や俳句があった。サムライたちが写真館で撮った写真に名前が添えられてあったが、とても日本人の名前に思えないのもあった。少し調べたら分かりそうなのに、と思った。全体に、この展覧会のキュレーターがアメリカ人中心で、日本人は協力はしてるけど、最終的な検証やチェックを入れてないように思った。サムライたちが地元の人にサインしたものが展示してあったが、「副使村垣範正のサイン」と説明されているのに、書かれている名前は「エハタ」だった。従者の中に江幡祐蔵という人がいるので、その人のサインに違いない。トミーの年齢も16歳のはずなのに、微妙に17-18歳と記してあった。他に、2-3点まとめてケースに展示してあるもので、左、右、中央の展示物の位置が添えられた説明書と一致してないものがいくつかあった。これはガードの人に伝えておいた。日本領事館やジャパンソサエティが協力して大々的にオープンした展覧会なのに、どうして最後まで点検してないのか、本当に不思議だ。 サムライの展示だけでなく、明治末期にニューヨークに来た日本人として黒木為禎(くろき ためもと 天保15年3月16日(1844年5月3日) - 大正12年(1923年)2月3日))の一行のアメリカ訪問の展示もあった。元薩摩藩士の黒木氏は日露戦争の英雄で陸軍大将で伯爵。同様に元薩摩藩士で軍人の男爵・伊集院五郎らとニューヨーク港に到着したのが1907年5月で、その後、ボストンやワシントンDCを訪れ、大統領とも面会したらしい。このジェネラル・バロン・黒木についての当時の新聞記事はかなり好意的で、日本がロシアに戦争で勝ったことをアメリカが好意的に見ていたことがわかる。ジャパンソサエティも当時できたばかりだと思うが、大々的に名士をそろえて歓迎祝賀会を開いたらしい。出席者の中に高峰譲吉博士の名前もあった。 この黒木氏だが、ニューヨーク港のハーバーに降り立ったときの写真で、美しい洋装、夜会巻きのような髪の女性が横に立っている。どう見ても妙齢20歳そこそこという感じ。今風の現代的な美人でもある。誰だろうと思ってキャプションを見ると、黒木氏の妻、と以下のように書いてある。 "General Baron Tamesada Kuroki and his wife on a New York ferry landing during their historic 1907 visit." ウィキで調べると、黒木氏は当時、63歳。彼の妻の「黒木ヒヤク 1868.3.25(慶応4)~ 1961.8.8(昭和36)」は黒田清隆の養女で、黒木との間に二男二女を生んだとある。1907年当時、「黒木ヒヤク」は39歳だ。どう見ても、この写真の若い女性が40歳近い妻には見えない。ヒヤクは黒木氏の後妻らしい。黒木氏には娘が二人いて、長女は「ッ子 1877-1928 夫:川田鷹」二女は「愛子 1888-1971 夫:子爵 高橋是賢」と記録にある。年齢から見て、当時19歳の二女の愛子さんが同行したのだろうか? それにしてもこれほどの美人が同行しているというのに、NYタイムズにも当時の文献にも、同行の女性についての記述はまったくない。歓迎会やレセプションには現地の女性は出席していても、一切、この日本女性が出席した記述も写真もないのだ。 こうなると、もしかして?元老・西園寺公望が西園寺家の女中・奥村花子をパリ講和会議(1919年)に同伴させたこともあるし。考えすぎかな。。 ジャパンソサエティがこの写真の女性を「黒木氏の妻」とあえてキャプションしなければならない事情があったのだろうか。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年08月19日 14時28分36秒
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