2枚の写真。
明治43(1910)年の母校N小学校の写真が佐賀新聞社刊「佐賀百年史」に載っていました。小学校の校舎以外は、遠くに西○○の家並みや海が見えるだけで、田んぼや畑ばかりです。山も鎮守の森?以外は刈り込まれています。なんだかコザッパリと全体的に手入れが行き届いている感じです。昭和32(1957)年、当院の建物のある場所で私は生まれましたが、私が物心付いた頃にはN小校舎は写真の3倍に建て増してあり、校舎のふもとに家が何軒が建って、井戸の見える坂道は桜並木になっていました。明治43年以来47年間、人口は2倍弱になりましたが、生活スタイルも家屋も伝統的なものでしたので、風景はあまり変わっていなかったと言えるでしょう。3歳頃から通っていた某西○○保育園は中景に見える山のふもとにありました。車も通ることはなかったので、歩いて通っていました。母が家の前の通りから手を振って見送ってくれている姿がほとんど保育園の近くに来るまで見えていました。それ程、昭和35(1960)年頃までは、田畑以外は住宅もまばらで視界を遮るものは何も無かったのです。しかし、この頃以降、ふるさとは急激に変わりました。当院の裏山から撮った同じ場所の写真と比べてみてください。昨日小雪がちらつく中、裏山に登って撮りました。わずかに山の端の形から、なんとなく同じ場所ということが判りますが、校舎は1968頃新校舎落成とともに取り壊されてありません。植え込みが繁って森みたいに見えますが、今はグランドの端っこになっています。田畑や山は道路や建物で埋め尽くされた観があり、同じ場所とは思えません。山は削られて住宅が建っています。山の木は定期的に伐採されることがなくなり、繁り放題で日光が遮られて、シダ類などの下草が生えなくなっています。現在山に入ると愕然とします。一見木は生い茂っているのですが、山が死んでいるのです。小動物のエサがなくなっているのです。虫も飛んでいません。以前は山は定期的に伐採され、生物学的に活気に溢れ、また、伐採された木や枝、下草はフロやカマドの燃料になっていたはずです。日本の人口を調べてみました。現在(2006)は1億2700万人。昭和35(1960)年当時の人口9100万人。終戦時(1945)7000万人。写真の明治43(1910)年当時の人口4700万人。明治初年(1867)3200万人。明治初年から終戦時の人口は2倍以上になっており、これが日本の軍国主義的、植民地主義的海外進出圧力になっていたとされています。江戸時代(1750)3200万人。戦国時代(1600)1200万人。奈良時代(750)450万人。この頃半島から100万人規模で移民が来ました。弥生時代(紀元元年頃)60万人。縄文時代 26万人。戦国時代から江戸時代初めにかけて、治水事業、新田開発が大々的に行われ農業技術の進歩とともに人口が増えましたが、日本の人口は江戸時代を通じて3200万人止まり。要するに完全有機農法?で食料国内完全自給ということになると、日本の人口は3200万人が上限ということになります。現在、日本の食料自給率は40%。米を除くと20%。残りの9000万人余りは間接的に石油を食っているということです。石油がなくなる頃、2050年の日本の人口は、奇しくも昭和35年と同じ9100万人と予想されているようです。実はこれでも多すぎますね・・・しかも65歳以上(現在21歳以上)が40%!今、日本人が少子化を選んでいるのは正しい選択と言えます(断言!)。