日本に中露との戦争を準備させているのは米国を支配する私的権力
日本の中高の歴史の教科書をいくら読んでも近現代史を全く理解できないのはここに書かれているような視座がないからなのだが、知っておいた方が良いだろう。ロシア・ウクライナ戦争を機に世界的な資源エネルギーの枯渇が明らかになってきた今、世界は非常に流動的になってきている。ま、彼らは焦っているということだ。ちょっと長いが転載しておきます。https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304030000/ 東アジアでの軍事的な緊張が急速に高まっているが、そうした状況を作り出しているのはネオコンをはじめとするアメリカの好戦派にほかならない。岸田文雄、菅義偉、安倍晋三、野田佳彦、菅直人・・・いずれの内閣ともネオコンの操り人形にすぎない。日本の政治家に焦点を合わせた議論は無意味だ。 日本は中国やロシアと戦争する準備を進めているが、それはアメリカの支配層から命令されてのこと。アメリカ政府も背後の強大な私的権力に操られている。その私的権力は19世紀に作成した世界制覇計画に基づいて動いてきた。「軍産複合体の利益」の利益は副産物にすぎない。 日本は明治維新以来、イギリスとアメリカの私的権力、より具体的に言うならば米英金融資本に支配されてきた。その支配システムが天皇制官僚体制であり、この構図は第2次世界大戦の前も後も基本的に変化していない。明治体制が続いているのだ。 勿論、そうした流れの中にも波はある。直近の波は1991年12月にソ連が消滅した時に始まった。その波の性格は1992年2月に国防総省で作成されたDPG(国防計画指針)草案に書かれている。 20世紀の前半からアメリカの国務省はファシストの巣窟だったが、その背後には金融資本が存在していた。ナチスの資金源がウォール街やシティ、つまりアメリカやイギリスの金融資本だということは本ブログでも繰り返し書いてきた通り。 近代ヨーロッパは南北アメリカ大陸、アフリカ、アジア、オーストラリアなどから資源、財宝、知識を略奪して始まった。 まず、11世紀から15世紀にかけて中東を軍事侵略(十字軍)、財宝や知識を手に入れ、スペインやポルトガルは15世紀になると世界各地で略奪を開始する。1521年にはエルナン・コルテスが武力でアステカ王国(現在のメキシコ周辺)を滅ぼして莫大な金銀を奪い、それ以降、金、銀、エメラルドなどを略奪、先住民を使って鉱山を開発した。 そうして手に入れた財宝を海賊に奪わせていたのがイギリス。14世紀から16世紀にかけて起こったルネサンスはそうした略奪と殺戮の上に成り立っている。 インドへの侵略と略奪で大儲けしたイギリスは中国(清)に手を伸ばすが、経済力では太刀打ちできない。そこで中国にアヘンを売りつけ、1839年から42年にかけて「アヘン戦争」を仕掛けた。1856年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」。この戦争でイギリスが手に入れた香港はその後、秘密工作や麻薬取引の拠点になる。犯罪都市になったとも言える。 こうした戦争でイギリスは勝利したものの、征服はできなかった。戦力が足りなかったからだ。そこで目をつけたのが侵略拠点としての日本列島であり、傭兵としての日本人だ。イギリスは長州と薩摩を利用して徳川体制を倒す。これが明治維新であり、天皇制官僚体制の始まりだ。 こうした仕組みを揺るがす出来事が1932年にアメリカで起こる。巨大資本の意向通りに動かないニューディール派のフランクリン・ルーズベルト(FDR)が大統領に選ばれたのだ。そこでウォール街の大物たちがクーデターを計画したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。FDRの立場は反ファシズム、そして反帝国主義でもあり、そのために帝国主義者のウィンストン・チャーチルとは関係が良くなかった。 ウォール街やシティはナチスへ資金を提供、ナチスが実権を握るとドイツとロシアとの関係は悪化する。1941年5月にはアドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ飛んび、イギリス政府と何らかの話し合いを持つ。ドイツ軍がソ連に対する侵攻作戦を始めたのはその翌月だ。この侵攻作戦はバルバロッサ作戦と呼ばれているが、この時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人だけだと言われている。 これだけの作戦を実行するためには半年から1年の準備期間が必要であり、1940年夏から41年初頭から準備を始めていたと推測できる。その時期、つまり1940年9月7日から41年5月11日にかけてドイツ軍はロンドンを空襲していた。4万人から4万3000名のロンドン市民が死亡したという。ドイツ軍によるロンドン空襲は陽動作戦と考えることができる。 ソ連の外交官や情報機関は1941年1月の段階でドイツ軍がその年の6月からソ連侵攻作戦を始めるとクレムリンに警告していたが、ヨシフ・スターリンは動かなかった。ロシア革命以降、ソ連軍とドイツ軍の関係は良く、スターリンはその関係を警戒していたとも言われている。 実際、ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する軍事侵略を開始、7月にはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。イギリスは動かない。 アドルフ・ヒトラーは10月3日、ソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないとベルリンで語り、またチャーチル英首相の軍事首席補佐官を務めていたヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015) 1941年12月に日本軍はマレー半島と真珠湾を奇襲攻撃してイギリスだけでなくアメリカとも戦争を始めるが、その翌月、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的だった。アメリカが参戦しなくてもヨーロッパではドイツが敗北し、ソ連が勝利することは確定的だった。 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲された。そして1943年1月にドイツ軍は降伏。その月にFDRとチャーチルはモロッコのカサブランカで協議、シチリア島上陸作戦が決まる。この作戦は1943年7月に実行されるが、これは対ソ連戦の始まりだ。ハリウッド映画で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからである。 この年の11月にアメリカでは大統領選挙があり、FDRが勝利した。すでにドイツの敗北は決定的であり、必然的に日本の敗北も視野に入っていた。戦争終結後にもFDRが大統領を務めるということは、ウォール街とファシズムとの関係が追及される。 金融資本にとって危機的な状況だと言えるが、こうした事態にはならなかった。FDRが1945年4月12日に急死したからだ。中心人物を失ったニューディール派の影響力は急速に弱まり、「赤狩り」もあってホワイトハウスの政策が帝国主義に戻る。 ドイツはFDRが死亡した翌月の1945年5月に降伏、チャーチルをすぐにソ連への奇襲攻撃を目論み、JPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日に提出された案が「アンシンカブル作戦」だ。 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000) この作戦を無用にした別の理由が7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場で実施されたプルトニウム原爆の爆発実験。この実験の成功で原爆製造への道が開け、正規軍による奇襲攻撃の必要がなくなったのである。爆発実験の実施日は当初、7月18日と21日の間とされていたが、ハリー・トルーマン大統領の意向でポツダム会談が始まる前日に行われた。 トリニティでの実験成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可。そして26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型を投下、その3日後に長崎へプルトニウム型を落としている。 原子爆弾の研究開発プロジェクトはマンハッタン計画と呼ばれているが、その計画を統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017) 8月6日に広島へ原爆を投下しなければならない理由もあった。1945年2月、クリミアのヤルタ近くで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連の首脳による話し合いでソ連の参戦が決まっていたのだ。ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告するという取り決めがあった。 この時のアメリカ大統領はルーズベルト。ソ連が参戦して中国東北部へ軍事侵攻、そのまま居座る事態をトルーマン政権は避けたい。中国を国民党に支配させようとしていたからだ。ソ連に撤退させる「何か」が必要だった。 ナチスによるソ連征服が失敗し、大戦は終結、チャーチルは1946年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。公開されたFBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014) このチャーチルを「最初のネオコン」と呼ぶ人もいるが、ネオコンは1992年2月にDPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇計画を作成した。「唯一の超大国」になったアメリカは他国に配慮することなく単独で好き勝手に行動できる時代が来たと考えたのだ。 そのドクトリンは第1の目的を「新たなライバル」の出現を阻止することだとしている。旧ソ連圏だけでなく、西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないというわけだ。言うまでもなく、日本がアメリカのライバルになることも許されない。その上でアメリカの戦争マシーンの一部になるということだ。 その時の国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツだ。そのウォルフォウィッツが中心になって作成されたことから、DPGは「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。 そのドクトリンに基づき、ジョセイフ・ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表した。日本に対し、アメリカの戦争マシーンの一部になれという命令だろうが、当時の日本にはその道を歩こうとしない政治家もいたようだ。 そうした中、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)た。その10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃されている。8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。 結局、日本は戦争への道を歩み始め、自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設、19年には奄美大島と宮古島にも作り、23年には石垣島でも完成させた。 アメリカの国防総省系シンクタンク「RANDコーポレーション」が昨年に発表した報告書によると、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようとしているが、配備できそうな国は日本だけ。その日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約があるため、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにする。そしてASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたという。 岸田政権は昨年12月16日に「国家安全保障戦略(NSS)」、「国家防衛戦略」、「防衛力整備計画」の軍事関連3文書を閣議決定し、2023年度から5年間の軍事費を現行計画の1.5倍以上にあたる43兆円に増額し、「敵基地攻撃能力」を保有することを明らかにした。日本政府が言う「敵基地」には軍事基地のほか工業地帯やインフラも含まれている。