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2008.03.27
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カテゴリ:野球・大リーグ
桑田が引退を発表!


さらば桑田真澄-。メジャー再昇格を目指しピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んでキャンプに参加していた桑田真澄投手が、TBS系の「筑紫哲也NEWS23」内で電撃引退を発表した。

巨人を2006年オフに退団後、2007年にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、オープン戦中に球審と衝突して開幕はマイナーで迎えたが、その後一度はメジャーに昇格。8月には戦力外通告を受けたが、今季もメジャー再昇格を目指し、パイレーツとマイナー契約を交わしていた。

桑田は「(引退には)いろんな理由があるが、そういう流れ。野球の神様が“お疲れ”といっている」と淡々とした表情で話した。
昨年、桑田はパイレーツの春季キャンプに招待選手として参加。一時は開幕メジャー入りの可能性大だった。ブルージェイズとのオープン戦(2007年3月26日)で球審と激突。
右足首のじん帯断裂というアクシデントに見舞われながら、一時はメジャーに昇格した。結局、19試合に登板し0勝1敗、防御率9・43と奮わず戦力外通告を受けた。
当時、桑田は「メジャーリーガーになれた喜びでいっぱい」と話し、現役引退を示唆していたが、今年になりパイレーツと再びマイナー契約を結び悲願である「メジャー1勝」を目指してきた。

今キャンプ、オープン戦は好調で、3月16日のレッドソックス戦では真紀夫人ら家族の前に米国“初勝利”を挙げたが、若手を優先するチーム事情から戦力外通告を受けた。桑田は「メジャーに残れなかったら引退しようかなと思っていた」と、番組内で引退に踏み切った理由を説明した。

桑田はTBS系の朝の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」にもアメリカから生出演していた。朝の忙しい時間帯だったが、私が見ていた時は何だか清々しい表情にも見えた。
そこで桑田は報道されているように、球団GMからメジャー昇格の見込みが無くなったことを告げられたと語っていた。

この時期までマイナー降格を告げられず残っていたのは立派だが、メジャーには実力の壁と「契約の壁」が存在する。主力選手にはメジャー契約でメジャーでのプレイが保証されており、桑田のようにマイナー契約でキャンプに招待選手として参加した選手が開幕メジャーを勝ち取れるのは1~2人程度と厳しいのが現実だ。

桑田は39歳という年齢と、選手層の薄いチーム事情から若手選手を育成する必要もある。
それでも昨年はトレーシー監督(元大洋)やコルボーン投手コーチ(元オリックス投手コーチ)といった、日本球界に縁の有る首脳が現場にいたことで救われていたが、今季はその二人は成績不振で退団して後ろ盾もなくなっていた。

「筑紫哲也NEWS23」でのコメントは以下の通り

--引退を決意した理由は

 「メジャーへ残れなかったということで、ここで引退しようかなと」

--マイナーでのプレーは考えないのか

 「マイナーっていうのは若い選手がメジャーを目指して、夢を追って戦う場所」

--今の心境は

 「メジャーで投げるチャンスはないといわれた。(ハンティントン)GMから。若い選手にチャンスを与えたいと。野球の神様からのお告げ」

--悔いはないか

 「長くやればいいっていうもんじゃない。気持ちが燃え尽きた。何一つ悔いはないという気持ちになれた」

--40歳までプレーしたかった

 「目標をクリアできたら偉いってもんじゃないし、できないからダメではない。200勝も40歳までやるというのも、クリアできないものも何個もある」

--奥さんにはどう伝えた

 「自分でも納得したんでボールを置くよと。『それでいいの?』とはいわれた」

--メジャーでの思い出は

 「やっぱりヤンキースタジアムでデビュー戦を飾れたこと。あとは18番をもらえたということはうれしかった」

--もう投げない

 「もう十分やらせてもらった。これからは野球界の後輩を1人でも多く育てられたらいい」

PL学園時代の監督、中村順司氏(現名商大監督)
「現役を辞めるとの連絡はありませんでしたが、彼には高校1年の時から3年間にわたり、いい思い出をたくさん作ってもらった。これからも野球界のために、力になってほしい」

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Last updated  2009.01.12 11:13:29
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