◇ 10月22日(日曜日):旧長月一日(甲申);朔、京都平安神宮時代祭、京都鞍馬の火祭り。
土曜日はここのところずっと会社に出て仕事をしている。真面目に頭を使って、明日や明後日より少し先の事を考えるためには、静かな土曜日は必須である。昨日は、しかし秋の好天に誘われて、早々に(といっても午後三時過ぎだが)オフィスワークを切り上げ、近隣を散歩することに決めた。
東京は狭い街である。
東京を広いと思うのは、出稼ぎの田舎者の錯覚である。東京、というより本来の江戸は、実は狭い。要するに東京で生まれ東京で育った根っからの東京人は、歩く道筋や(昔の)都電の路線など、地上の目標物を中心に面として位置関係を把握しているのに対して、我々のような新参の外様大名は、地下鉄の路線図や山手線の駅の位置関係など、点と線というレベルでしか東京の街を分かっていない。
タクシーに乗っても、携帯電話で連絡しながらとか、仕事の資料を読みながらだから、地上の光景なんか殆ど見てはいない。だから我々の「土地勘」なんてものは、どうしてもいびつなものになってしまうのだ。例えば、「神田神保町から大手町まで20分程度で歩ける!」などと云うことを「発見」して感動してしまったりするのである。
昨日は有楽町に用事があって、事務所のある神田錦町から学士会館の脇を抜けて平河門に至り、内堀通り沿いに皇居外苑を進み、有楽町方面に行こうと云う作戦であった。これだって、歩行距離にしてみれば3キロも無いのだ。
歩き出してみたら、皇居の平河門までは事ほど左様に予想より遥かに近く、すぐに着いてしまった。このまま行けば有楽町界隈の喫茶店に入り、美味くも無いのに馬鹿馬鹿しいくらいの値段を取られるコーヒーでも啜りながら時間を潰さざるを得なくなる。そしたら大手門の辺りに人の出入りが盛んなのに目が付いた。立て札を見たら、「皇居東御苑。午後四時まで。入場無料。」と書いてある。
江戸城は西郷隆盛と勝海舟の会談によって無血開城が決し、1868年(明治元年)天皇が行宮(あんぐう)として入城して以来、(正式遷都は翌1869年)皇居と呼ばれている。その所為かどうかは知らず、旧江戸城は全て天皇のお住まいであって、民草には開かれていないものだと思い込んでいた。勿論旧北の丸の一帯が公園として開放されていることは承知していた。しかし、それでも江戸城=皇居というイメージは維持されたままであった。これは僕だけの特殊事情なのだろうか?
実際には今の皇居は昔の江戸城のごく一角を占めているに過ぎない。内堀に対して坂下門、桜田門、半蔵門で括られた、旧西の丸の一帯を宮内庁の施設や今上天皇の御所やお住まいが占有しているのである。内堀で囲まれた他の領域では、旧北の丸が公園になっているのは周知の事実だが、北桔梗門、平河門、大手門、桔梗門で囲まれた一帯も、東御苑と称して公開されているのである。(但し、桔梗門の近辺は、皇宮警察などの施設があるため、入ることは出来ない。)
東御苑には、旧二の丸、三の丸が含まれる。のみならず本丸も含まれているのだ。つまりは、旧江戸城の将軍の常住の場所や大奥を含む領域は、今上のやんごとなき辺りの禁域ではなく、旧天守台に至るまで我々民草が直に目にし、足で踏みしめ、手で触れることが出来るのだ。これは皆知っているのだろうか?少なくとも、東京界隈に徘徊して既に30余年の僕は知らなかった。
今回は、何も知らずに時間つぶしの積りで入り込んだので、事前知識は何も無かった。何より、こんなに簡単に「旧江戸城の中」に入り込めるなどとは知らなかった。
それで大手門をくぐって百人番所を過ぎ、二の丸、三の丸と歩いて、段々興味が募って来た辺りで、時間が足りなくなり、そのまま又大手門から出てきてしまった。
中は流石に良く整備されているし、ゆっくり歩いてみると中々面白そうだ。何より天守台跡に行く事が出来なかったのは残念だった。
東京にはそこかしこに江戸が残っている。その代表格がこんなに近くにあるのを知らなかったのは迂闊である。今度はじっくり歩き回ってみようと思っている。
♪♪今回の厚木語辞書♪♪
『秋の日は鶴瓶落とし』 - 秋の日は寂しくて、あの賑やかな笑福亭鶴瓶ですら落ち込ませてしまうほどだ。
【対応する日本語】 - 秋の日は釣瓶落とし。