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マックの文弊録

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2006.11.21
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◇ 11月21日(火曜日); 旧十月朔日 甲寅、京都東本願寺報恩講、近松忌

五日前の11月16日、ミルトン・フリードマンが亡くなった。彼は1912年7月31日が誕生日だったそうだから、なんと94歳の長寿を全うしたことになる。
彼は、経済学におけるシカゴ学派のリーダーとして知られ、それまでのケインズ流の経済学に取って代わって、米国政財界での主流になった「マネタリズム」の代表者である。これは、「景気循環は政府の財政政策によってではなく通貨供給量と利子率だけによって決定される」という考え方で、1977年に第39代合衆国大統領に就任したジミー・カーター以来、レーガン、ブッシュSr.、クリントン、ブッシュJr.と、出身政党が変わっても代々の大統領によって引き継がれてきた。

フリードマンは、ノーベル賞受賞者を含め多くの経済学者を育てた。
小泉さんの時代に日本の経済を引っ張った竹中平蔵氏もその流れを汲む「ネオリベラリスト」と呼ばれる経済学者の一人である。
ネオリベラリズムとは「国家によるサービスの縮小(小さな政府=民営化の推進)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする考え方のことである。竹中氏や小泉氏だけで無く、かの民主党の小沢一郎氏もその著書「日本改造計画」のなかで、彼の考え方を同様の思想に集約している。

わが国においても、新自由主義的な政策の成果として経済の供給面が強化され、安定した円安傾向による輸出の好調のおかげで、2002年以降の高い経済成長率につながったとされる評価が現在では大勢を占めている。これがつまりは現在政府が「いざなぎ景気(1965年11月~1970年7月)を超えた」と喧伝している「好景気」をもたらしたのだとされている。

しかし、ネオリベラリズムは、それによる税のフラット化、公共事業の縮小、政府事業の民営化などの政策によって、同時に利益優先に依る公共性の崩壊と貧富格差の拡大など、負の結果もたらすとされている。この結果が、わが国でも「中央・地方の格差拡大」、「所得格差の拡大」、「人口の一極集中=地方の過疎化・貧困化」、それによる汎日本的な「中流階層の喪失」につながっている。そういう状況が社会問題として無視できない状況になっていることが、NEETや出生率の低下、更には様々な問題、つまり児童や学生の学力の低下、学校でのいじめ、子供の自殺などの遠因にもなってきているのではないかと思える。

元々ネオリベラリストでありながら、米国での航空業に対する規制緩和に反対して転向した学者であるポール・デンプシーは、日本に向けたその著書「規制緩和という悪夢」の中で、「もし、あなたが日本で規制緩和しようと云うなら、こう理解しておけばいい。要するに規制緩和とは、ほんの一握りの非情でしかも貪欲な人間に、とてつもなく金持ちになる素晴らしい機会を与えることなのだと。一般の労働者にとっては、生活の安定、仕事の安定、こういったもの全てを窓の外に投げ捨ててしまうことなのだと。」と書いている。これは、最近どうも正しいように思えるのだ。


最近ある人から「象徴の貧困」という言葉を教わった。
その人のおっしゃるには、最近メディアを始め世の中の公論の場とでも言うべき世界が、どうも特定の単純な表題(象徴)に偏り、そればかりが取り沙汰されるような傾向がある。例えば、しばらく前は、メディアはこぞって「子供殺し」というテーマに群がっていた。その次は「いじめ」だ。そして、今は「自殺」、「地方行政での裏金」、「日本の核武装議論に対する、議論の封殺」。
広くあまねく多角的に事象を捉える代わりに、既に存在している象徴に何事も集約しようとしてしまう。それは一体何なのだろうと、どこかの大学の先生に聞いたら、それは「象徴の貧困ということなのですね」と云われたのだそうだ。
この方ご自身は、ITの分野で、より人間の思考法や感性に近い情報をどう取り出すかというテーマに取り組んでいらっしゃるのだが、それがメディアには「Googleと類似で競合する」と安易に断じられてしまうのに憤慨なさっているのだ。「先入主に囚われない新しい考え方を主張しているのに、世の中で圧倒的主流と思われているGoogleという象徴に括られてしまうのは、甚だ不本意である」と。
確かにそういう傾向は以前から僕も感じている。
思えば「知の世界」でも、「中流の喪失」という現象が起こっているのだろう。

ネオリベラリズムがもたらす危険は、寡占化と中流の崩壊である。
「中流」というのは、実は非情に重要な存在であり、毎日の生活における金銭的な不安や心配から解放された人々は、経済行動においても文化面でも、そして「知」の面でも活発に活動し、社会の活性化と進歩の原動力になるものなのだ。わが国においても、又米国においても、或いは他のどの国であれ、過去に観ることが出来る経済や社会、文化の発展は、こういう分厚い中流層に支えられて花開いたものであったのは歴史としての事実である。

僕などベンチャー企業の創業者として痛感するのは、ビジョンを持って創業したのに、その後は仕事よりも金の心配ばかりしなければならない。肝心の仕事は自分自身よりも、後から参加した人間や、部下にその多くの部分を頼らざるを得ないという皮肉である。創業社長の大半は僕同様の試練に直面されているもののように見受けられる。これも、新規の可能性を育成したり保護したりするより、「市場のルール」に任せ、畢竟スケールメリット、経済利益を追求し、大規模寡占化へのベクトルを増大させようとする、様々な制度や雰囲気の所為なのだろうとも思える。

そう思うと、この国の将来のためには、あらゆる面での「中流層」を復活させ活性化させる施策を、政府としても重視しないと駄目だろうと思えてくる。適切な規制の導入は、やはり必要であると思う。いかなる規制も必要ないというのは極論であって、妥当な規制は、それが「国としてのビジョン」に根ざしている限りにおいて、国民も遍く受け入れるものである。政治家の諸賢は是非にもそういう議論をしていただきたい。又我々民草も積極的にそれに関わるべきである。「国家の品格」というものは、そういう点においてこそ議論されるべきなのだ。






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最終更新日  2006.11.21 18:42:13
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