カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 2月18日(日曜日) 旧丁亥(ひのとゐ)正月朔、癸未。
いよいよ旧の暦でも年が改まった。新旧共に今日から揃って亥年になった。つまり僕ももはやどう足掻いても立派な年男として逃れようがなくなった。 明日は、二十四気の雨水だが、12年前の平成7年の雨水の日、郷里の岐阜市は少し前に降った雪が日陰では凍りついたまま消え残る、今年の冬とは大違いの寒い日であった。父の命日である。 平成6年の夏、僕としては清水の舞台から飛び降りて、両親をハワイに連れて行った。と言えば聞こえは良いが、往復のビジネスクラスの航空チケットは出張で溜まったマイレージで入手し、ホノルルのホテルの最上階スィートは部下の親類のツテを辿って格安で調達してもらったのだから、積年の親不孝の巨塊を鎮めるにしては、実ははかなり廉く仕上がったのだ。 老夫婦、それも夫婦共に海外旅行初心者のハワイ旅行なので、旅程も特に定めず、現地ではレンタカーを借りての、ぶらりノンビリを心がけた。具合の優れない様子の父のことを慮って、ゆるゆると気の向いた場所を見物する方が良かろうとも思ったのだ。但し、この時点では未だ父の病名は我々には知らされていなかった。 両親共に教師であったし、僕自身も歴史には興味が有るので、1週間ほどの滞在中、博物館や太平洋戦争時代の遺跡、ポリネシアン文化センターなどを中心に巡り歩いた。 社会科の教師だった父は、真珠湾の艦船遺跡にはいたく強い印象を受けたようで、戦艦アリゾナ記念館に向うランチの上では、かつての敵国人どもに挟まれて、緊張の体ではあったが、艦内の色々な展示を翻訳してあげるに連れ、流石に感極まって涙しながら海に手を合わせていた。大正生まれの教師として、自らの弟も戦地で無くしている父としては、先の大戦の思い出はなかなか風化し難いものであったことだろう。 しかし、ほぼ一週間の旅行の間、やはり何となく元気が無く食も進まず、対照的に元気満々で買い物に余念がない母とは行動を別にしてホテルに留まりがちであったのは、僕としては随分気になったものだ。 無事帰国して暫く経ったその年の暮れ、下の娘を連れて帰省した時は、可愛くてしょうがないはずの孫娘が纏わりついても、もう何となく大儀そうで、ちゃんと相手をするのも辛そうだった。 地元の大学の医局医をしていた身内から、「お父さんを大学病院に移しました」と連絡があったのは、正月休み明けのことであった。病院に駆けつけ、思いのほかやつれてしまった父の様子を見て、「あぁ、これはもう駄目かもしれないな」とその時初めて思った。 身内の医者が、「ちょっと、見て欲しいものがあるのです。」と妙に気色ばんでいる。ついて行くと転院する前の病院のカルテが机に置いてある。かなり分厚である。「僕は医者じゃないから分からないよ」と言っても、「まぁともかく見てください」と譲らない。 見ろというのだから何かあるのだろう。幸い一枚一枚のカルテは同じ形式で、時系列順に閉じてあるから、ぱらぱらと高速度で見ていくのが多分間違いない。昔の子供用の雑誌に付録でついてきた「人力動画」の要領だ。 そうして眺めていくと、ある箇所で違和感を覚えた。それまで整然と流れていた数表のある部分の数値が、いきなり大きく変化したのである。「ん?」と手を止めると、身内の医者は、「ね?やっぱりすぐに気が付くでしょう?」と詰め寄ってくる。日付を見ると丁度ハワイに旅行に出る2ヶ月ほど前のカルテだ。その日付を境にして、今度はその数値はじりじりと「悪化していく」ように見える。 「そうなんですよ。これはホジキン病の特長なんですよ。」、「こんなの専門外の人だって見落とすはずもないでしょう!?前の病院の医師は、こんなに明らかな変化を見逃して、頭痛の治療しかしてこなかったんですよ。これは明らかに怠慢ですよ。」と、慷慨することしきりである。 彼によれば悪性リンパ腫の一つであるホジキン病は、早期発見さえ出来れば当時でも完治率80%は期待できるという。生前の父は、少しでも具合が悪いと直ぐに医者の門を叩くマメな人だった。孫娘の花嫁姿を見るまでは生きなければと、ウォーキングにも励んでいたし、定期健診も律儀に欠かさなかった。早期発見ができないはずは無かったと思う。しかし、長期間見逃したままで経過してしまったために、父の病状はもう絶望的になってしまったのだそうだ。 「君も何度か前の病院にお見舞いに行ってくれたんでしょう?いつおかしいと思ったの?」と訊ねると、実はかなり前から何となく変だなとは思っていたのだそうだ。 今では当たり前の「2nd Opinion」などという概念は当時は未だ希薄だった。むしろ医師同士の間には「相手の領分を侵さない」という不文律すらあって、変だと思ってもそれを相手の医師に指摘することは憚られたのである。患者本位で考えるのではなく、面子の方を大事にする医者の世界の旧弊さに、僕は唖然としたものである。 どうも後で思うと、いつからか父も薄々「なんか診断が妙だぞ」とは感じていた節がある。しかしその病院は教員の加盟する共済組合が運営する病院であったため、父も「身内同士」として、殊更疑問点を指摘することも無く、遠慮してそのまま通っていたようなのだ。これは、父が亡くなった後で母親から聞いた。 一種の諦観を余儀なくされると言うことなのか。社会空間の狭い地方都市に住まうことの不条理さは、こんなところにも現れるのであろうか。結局、業を煮やした身内の医者に説得されて、本人の発意と言う形を整えて、やっと大学病院に転院した時には、最早父の体内のリンパ節は斑紋のようにがん細胞に犯されてしまっていたのである。やりきれない思いであった。 転院しても、特段の新規治療法が有るはずも無く、その後病状は悪化の一途を辿り、雨水の日の昼近く、命のぬくもりが抜けるように逝った。僕は間際から父の手を握っていたが、身内の医者が「ご臨終です」といって、延命器具のスイッチを切った後、握った手が急速に冷たくなっていくその速さに驚いていた。それは正に、今までそこにあった命が、体を抜けて空中に旅立っていく様子をまざまざと実感させたのである。 しかし、転院後の父にも短いながらも小康状態を得る瞬間もあった。 いよいよ希望が持てないとなった時、我一家を率いて岐阜に行った。父の病室に皆を案内して、僕が少し席をはずして帰ってくると、父のベッドを囲んで、皆がおいおい泣いている。母も、妹も、妻も二人の娘も、全員が目を真っ赤に泣き腫らしている。少し角度をつけたベッドに凭れて目を瞑っている父の頬にも、涙の後がある。異様な雰囲気である。 驚いて、「どうしたの?」と尋ねると、その年小学校2年に上がる下の娘が、「オジイチャンに唄ってあげる」と「春の小川」を唄いだしたのだそうだ。そしたらそれまでまるで倦怠している様子だった父が、いきなり唱和し出し、最後は全員斉唱になったのだそうだ。 唄い終わって感極まり、皆で泣いていたのだという。 僕は・・・・その時喫煙所にいてミソっかすになってしまったのだ!僕が心の底から喫煙習慣を悔いた稀有な例である。 父は、転院して程なく気道確保の為に口から管を差し込まれて、口を閉じることが出来なくなってしまった。眠っている間もこの管ははずすことができないから、咽頭も口蓋も舌も乾燥してしまい見るからに気の毒だった。何度目かの見舞いの折、父はやにわに病室から人払いをし、僕だけを残して何やら懇々と話し始めた。本人は一生懸命言葉を編もうとするのだが、何しろ口の中が乾いてしまっているから、うなりのような音しか生成されず、聞いている方はさっぱり分からない。 コットンで口に水を含ませて見ても、それまでが尋常な乾き具合ではないから、やはり言葉が判然としない。水ばかり飲ませていいものかどうか分からないし、そのうち本人が焦れてきたので、分かったフリをしていい加減な返事をしておいた。彼は滔々と話した後、やがて眠ってしまった。 父は几帳面で有名な人で、亡くなった後で、書斎の机から戒名まで出てきた。曰く「徳義慈教居士」。自分で自らの戒名まで用意しておいたのである。 お金にも細かい人だったようで、母に言わせると遺産もちゃんとどこかに目録になって隠してあるに違いないのだそうだ。あの意味不明の説諭は、不肖の長子として我一統を率いていくべき使命を担う僕に対して、遺産の相続と分配の指示、目録のありかを申し送りしようとしたのではあるまいか?惜しいことをした。 しかし、何とか言葉を形作ろうと、もどかしくも苦しそうな父の様子は、実際見ているに忍びなかったのだ。だから、ついいい加減な返事で分かったフリをしてしまったのだ。 それにしても、父が逝ってもう12年にもなるのだ。 当初は、独りになって却ってせいせいした様子だった母は(女は冷たいし強い!)、ご近所の皆さんを仕切って毎月のように嬉々としてバス旅行に出かけるなど、至って元気だったが、一昨年の年末に玄関先で転んで以来急速に老け込んでしまった。あまつさえ出不精にもなって、段々記憶に混乱を見せるようになった。今では、父と一緒に暮らした家にも一人で暮らすことが出来なくなって、市内のグループホームに入ったままになってしまった。妹に依れば、記憶のジャンプや見当識の喪失は日を増すごとに激しくなっているとの事だ。 僕自身も仕事のほうに、思いのほか時間と神経を取られてしまっていて、岐阜に戻って母に会うのも思うに任せない。妹に頼りっきりの体たらくで、この歳になっても相変わらず親不孝の連続である。 時間が経つごとに去っていく言葉と、逆にやって来る言葉と云うものがある。 「お父さん」とか、「お母さん」は去っていく言葉である。僕には最早「お父さん」は遠くに去ってしまった言葉で、これから新たに誰かを「お父さん」と呼ぶことはもうない。「おじいさん」も「おばあさん」も同様である。 逆に歳を取ってやってくる言葉は、「娘」、「息子」そして「孫」である。 願わくば、「お母さん」は、もう少しして会社の形が付くまでは、なんとか健全さを維持していて欲しいと思うや切である。彼女の頭がはっきりしているころに、このことは何度も何度も繰り返し説いたものだが、今の彼女は、そんなことなどとっくに忘れてしまっているはずだし、僕の顔を見ても誰だか分からなくなってしまったのかもしれない。 寂しいことだ。 毎年、雨水の頃になると、いつもとつおいつこういうことを考える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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