カテゴリ:小言こうべえ
◇9月13日(木曜日) 旧八月三日 庚戌: 世界法の日
慶應三年(1867)の師走に、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視の策動によって徳川幕府最後の将軍慶喜は、役職の返上と領地の返納を迫られた。所謂「王政復古の大号令」である。 これで勢いに乗った薩軍の江戸市中での乱暴狼藉は後を絶たず、慶喜は周囲の「討薩」の声に押されて、旧幕府軍による京都の軍事封鎖を試みた。旧幕軍勢力約1万5千、薩軍(新政府軍)勢力約5千と、軍事的には圧倒的に慶喜優勢であったけれど緒戦で敗退してしまった。鳥羽伏見の戦いである。 ※ここで「旧幕府軍」というのは、王政復古の大号令で公式には幕府は消滅してしまったからだ。 遡ること一年弱。保守的な考え方を保持し続けた孝明天皇が倒幕派により毒殺され(宮内庁は未だに認めていないけれど)、息子が第122代天皇に即位し明治天皇となった。未だ若年(15歳)の明治天皇は、「何がなんでも倒幕」という薩摩藩や長州藩、そして岩倉具視等一部の公家により(少なくともこの頃は)利用されたと考えることが出来る。結果、徳川慶喜に対して大政奉還の上表を勅許し(つまり、「アンタ辞表を書いたら受け取るよ。」=「辞めなさい。」ということ)、返す刀で薩長両藩主に幕府討伐の密勅を発した。 倒幕の密勅の事は恐らくは慶喜は知らなかったのであろう。しかし、薩長を始めとする反幕勢力が軍事強攻策に走るであろう事は予想していたようで、大政奉還は当時の朝廷に実務的な統治能力は無いと見て、これを上表し勅許を受ける事で先ずは薩長の矛先を逸らす。その上で、当時の慶喜の理念であった朝廷を戴く徳川中心の新政体を築こうとした。慶喜はそう考えたようである。正に「職を賭して」の判断であった。 つまりは、「二百数十年余りの幕府レジームを脱却し、我国の伝統を護持しながら、新しい国際秩序の下での美しい国日本を創ろう!」と云うわけである。 一方の薩摩藩・公家の倒幕勢力は、さはさせじと師走の9日になって薩摩藩を中心とする軍隊によって御所を武力封鎖し、15歳の天皇の前で薩軍の武力を後ろ盾として、穏健派や保守派の反論を圧殺し、倒幕の議論を有利に進めた。その結果、天皇の名で王政復古の大号令を発し、慶喜への辞官納地と京都における幕府の出先機関を閉鎖することを決した。同時に、従来からの摂関制度と幕府の廃止と、新政体の要としての三職(総裁、議定、参与)を置く事も決議され、これによって当時の仕組みとしては、「公式に」幕府は廃絶され、「新政府」が樹立される事になった。 簡単に言ってしまえば、これは武力クーデターである。実際、この場からは慶喜は締め出されていたし、公議政体派の諸侯との間で議論が紛糾した際、御所門外で警備を担当していた西郷隆盛は、薩摩藩家老の相談に、「何、短刀一本で片付くでごわす。」と答えたそうだ。 しかし、当時は(今も根本では変わっていないが)天皇の権威と云うものは非常に重いものがあった。それは、個人或いは現実勢力としての権威・権力と云うよりも、連綿と続く血統への尊敬と、日本の伝統の守護者、祭祀の最高権威に対する根源的な愛着、敬意であった。こういう天皇或いは皇室への「愛慕」は、どうも日本人のDNAの一部になっているようである。 そう考えると大方の日本人は、「天皇様を哀しませたり傷つける」ことには耐え切れない。背後での実体はともあれ、「陛下のご意向」とか、「天皇のご英慮により」ということになると、表立って反対したり反抗したり、ましてや敵対したりは出来なくなる。実際、鳥羽伏見の戦いでも、淀藩、津藩、鳥取藩などが、加勢や英地の提供を求める幕軍に対して、日和見を決め込んだり、裏切ったりした。 何しろ薩軍は錦の御旗を掲げ、「天皇様の軍隊」を殊更に標榜しながらの進軍である。中立・親幕各藩の戦意や、幕府に対する忠誠心(実際淀藩主稲葉某は、慶喜の側近で幕府現職の老中だった)を沮喪させたのみならず、鳥羽や伏見の町衆も思わず、錦の御旗に声援を送ってしまった事であろう。 かくして1万5千余の幕軍は、その三分の一の兵力に惨敗したのである。 いわばこれは「時の流れ、或いは世論による敗戦」である。 しかし、嗤ってしまうのはこの「錦の御旗」、実は岩倉具視による捏造、つまりは贋作であったらしいということだ。そうだとすると、岩倉のマーケティング戦略の勝利と云うことになる。「世論」などというものは、周到な操作によってどうにでも変わってしまうのはいつの世も同じだ。 こうなると、徳川御三家の出で英明を以て名を馳せた「お坊ちゃま将軍」慶喜は、もう嫌気がさしてしまう。元々蛮刀を振るって敵陣に切り込むようなタイプではない。京都の軍事封鎖だって周りに押されての事で、本人は余り乗り気では無かったらしい。 神戸の開港に尽力したり、英才の海外留学を奨励したりしたし、将軍としての最後の2年間ほどは当時日本に滞在していた各国公使と目まぐるしくも頻繁に会っている。そして彼が唱えたのは公議政体論だ。決して猪突猛進の武断派の頭領でもないし、陰謀や策謀を巡らしてねっちりと目的を果たしていこうなどという人物でもない。それで、彼自身が見て「出口なし」の状況になると、「敵前逃亡」してしまうのだ。鳥羽伏見の戦いの開戦後5日後には、大阪湾から船に乗って江戸に帰ってしまうのだ。 この時、未だ旧幕軍の勢力は旺盛で、大阪湾に回航した軍艦の火力と陸の兵力を以て腹を据えて戦えば、旧幕軍に勝算は充分にあったそうである。 にも拘らず彼は逃げた。これは、「もうどうにでもなれ。ここで又戦って勝ったとしても、どうせ又新たな内乱の原因を作るだけじゃないか。だったら、もう自分が退く事で解決をはかるようにすれば良いじゃないか。」という気分が、慶喜自身にあったのだろうと想像できる。(実際慶喜がそんな事を側近に言ったという記録もあるようだ。) 慶喜は江戸に帰った後、ひたすら恭順の姿勢を貫き通した。 しかし、慶喜の内戦終結の意思とは逆にその後戊辰戦争が起こり、旧幕勢力と明治新政府軍の間には更に血の抗争が続く事になってしまった。そして、最終的に慶喜は彼を辞任に追い込んだ「維新の三傑」(木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通)より長生きし、大正二年(1913年)に76歳の天寿を全うするのである。 さてさて、我等が「敵前逃亡宰相」である。 この人が今回如何なる「理念」のもとにお辞めになるのか。 大先輩の慶喜さんや、やはり電撃辞任した熊本のお殿様の末裔の元宰相のように、趣味人としての第二の人生を全うされるのか。 しかし、それにしても女房役である官房長官が、辞任会見の後になって病気を理由に持ち出してきたのはいただけない。「今まで無理を押して国の為に奔走してきた。実は総理は誰にも言わなかったけれど病気だったのに。」というのは、日本人の判官びいきの心情をくすぐる事で、非難やそしりの矛先をかわそうという底意が見え隠れする。しかしこれは逆効果だと思う。 慶喜さんが逃げた時には、最早公式には無官の人であった。彼は「公式」には何の権威も権利も、従って義務も持たない市井の人として逃げたのである。 それに対して安倍さんは未だ一国の総理の立場のままである。それなのに官房長官がああいうことを云ってしまうから、辻褄を合わせるためにも急遽入院せざるを得なくなってしまった。これは敵前逃亡の行為を上塗りするものだ。 若し今北朝鮮がミサイルをぶっ放したらどうする?若し、又どこかに大地震が起きたらどうする?臨時代行も置かずして、そんな事件が起きたら誰が最高指揮官をつとめるのだ?これこそ無責任の極みと云われても否定できない事だろう。 ここは一つ、新しい総理大臣が正式に就任するまでは、官邸に居続けて「世論に恭順」の姿勢を貫きつつ、踏ん張るべきだったと思う。 ま、しかし今度は麻生さんだという声が専らだが、本音では今後を継ぎたくはないだろうなと思う。小泉さんも厭だと言うだろうし、本気でやりたい人は谷垣さんくらいじゃないか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.09.13 16:22:53
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