カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 1月11日(日曜日); 旧師走十六日 丙辰; 望、鏡開き、奈良若草山山焼き
「ちゃっとまわしして来るで待っとって!」 僕の高校時代同期の友人がしばらく前に語ってくれた話だ。 学校だかクラブだかの何かで、ある女生徒を呼び出す用事ができた彼は、彼女の自宅を訪れたら、玄関先に出てきた件の女生徒にこう云われたのだそうだ。 彼は中学校の時に四国から岐阜の町に引っ越してきて、僕と同じ高校に進んだ。 彼はそう云われて、玄関先で彼女を待つ間「何故彼女はマワシなんかをして来るのだろう?」と、疑問に思いつつもその姿を想像してドキドキしてしまった。 暫くして現れた彼女は、ごく当たり前に外出着を身にまとっていて、色々想像をたくましくして待っていた彼としては拍子抜けしたのだという。 花も恥らう年頃の娘が、相撲取りのように裸身にマワシをして出てくれば、さぞかし・・・と思う。残念。 これは、岐阜(恐らくは美濃地方の)の言葉で、「急いで仕度をしてくるから待っててね」と、共通語ではかような意味になる。 しかし彼が育った四国ではこういう表現は無く、彼は当惑すると共についあらぬ(健全な男子高校生としてはごく自然な)想像をしてしまった、という訳だ。 「まわし」というのは、当時わが郷里ではごく自然な言葉で、身支度だけではなく「ご飯のまわしをする」とか、「正月のまわしをする」など、広く「色々な仕度」という意味で使っていた。 他にもとっさに思いつくのは、「もうやい」という言葉だ。「モウヤイにする」とか、「喧嘩せんと二人でモウヤッコにしやぁ」などとつかう。「公平に均等分けにする」という意味である。だから上は「喧嘩しないで二人で分けなさい」という意味だ。 これはずっと以前にはるばる我が家を訪れた母がお土産を紐解く時に使って、子供たちが分からなかったから、やはり岐阜に独特な言葉だろうと思う。 又、英語なら「I would like you to ・・・」と、ある行為を相手に勧誘若しくは依頼する文脈で「・・・」の動詞の語尾に「jaa = ィヤァ」を付ける。つまり「いらっしゃい」は「イリャァ」、「しなさい」は「シャァ」などとなる。これは岐阜というよりあの辺りに共通の習いのようで、某タレントが「あそこでは横断歩道の信号までミャァミャァ云っている」などと紹介して有名になった。 「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く」という短歌があるけれど、随分以前は帰省するおりなど、電車が段々郷里の町に近づくにつれて、耳に入ってくる周りの人達の話す言葉の響きが変化していった。それにつれて、此方の懐かしい気持ちも、「帰ってきた!」という気分も増していったものだ。 しかし、今はもうこういうことも無くなってしまった。前回母の容態が悪くなって久しぶりに岐阜に帰ったが、新幹線を乗り換えた在来線の中でも、郷里の街頭でも、聞こえてくる言葉は首都圏の其処此処と変わらない。暫く前までは、「文字にすれば共通語」であっても、話されるときのイントネーションは昔のままという風であったが、もうそういうことも感じられなくなってしまった。 言葉だけではない。郷里の町にも知らない道路が其処かしこに出来、良く名前の知れたコンビニや量販店ばかりが目に付き、目にする風景も首都圏のそこいらと変わらなくなってしまった。 様々な領域で共通の「符号」が普及・蔓延し、それぞれの本来の特徴が薄められて均質化され、「標準化」されていくことを一言でいえば、「グローバリゼーション」となる。 グローバリゼーションは効率化、合理化を促進するという点では悪いことだとは思わないが、一方で集約化や巨大組織による寡占化をも促進する。 などと考えると、またぞろ昨今の社会情勢への批判になってしまう。 今、岐阜の町で「マワシしてくる」と云っても、ひょっとして最早誰も分からない死語になってしまっているのではないだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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