◇ 3月15日(日曜日); 旧二月十九日 己未(つちのと ひつじ): 友引、京都嵯峨釈迦堂お松明
昨日とは変わって風も弱く良く晴れた。書斎(ということにしておく)の窓越しに見える隣の庭の白梅も、花弁より赤茶色の萼の方が優勢になってきた。お天気も周期的に移り変わるようになった。今週は木曜くらいまではこちらでも暖かい陽射しの日が続くという予報だ。
晴天の蒼穹は鋭さを失い、水彩の水色のように淡くなった。今週の金曜日は春分の日、春のお彼岸だ。いよいよ東洋のみならず西洋の暦でも春の季節に入る。
いっとき、西松建設の陸山会への迂回献金の件で騒がしかったメディアもこのところはこの件に関しては余り取り上げない。日本のメディアの事だ、際物記事に相応するネタが出てくるまでは、国会での麻生君の失言を期待しながら放っておく積りだろう。
この間までは次期首相に擬せられてまんざらでもなかった筈の小沢君はじわじわと退潮気味だし、対する自民党は内心のほくそ笑みを隠して静謐を装っている。
政治には金が必要だし、政治家として出世するには他の政治家より金を使わなければならない。良い悪いではない。これは理論的に自明のことだ。(何故自明かは、いつかヒマな時に書いて証明しようと思う。)だからこれは陸山会だけの問題ではない。自民党でも西松建設に連なる団体から金を貰ったことを「今になって分かって驚き」、「手続き上は問題ないが、道義的な面からお返しする」などという議員が出てきた。他の議員だって内心戦々恐々だろう。
検察には無論不偏不党の立場で粛々と捜査をし、違法は違法として然るべく仕事を進めていただきたい。しかし、民草として余程承知しておかなければならないのは「法は正義と同一では無い」ということだ。
法律は人間が作った。
本来人間を律するものとしては、法律以前に天網がある。天網恢恢という如く、これは大所的で鷹揚でゆったりとしたものだ。しかし天網は自然界の摂理と、人間のあるべき本来(日本語で言えば「義」とか「理」。英語で言えば「fairness」とか「trust」だな、きっと。)に即したものだから、鷹揚に見えながら疎にして漏らさずと云うことになる。
しかし天網を対処的に応用するのは中々難しいから、これをばらして都度必要な分だけ取り出し、辻褄の合うように組み立てて文章に記し、万民に布告したのが法律である。
その過程でどうしても大局は失われ、対処的な部分から恣意性が入り込む。つまりは、「汝不正義を為して、他者を害し亦自らに恥じること勿れ。」というのがいわば天網で、それを物差しに仕立て直したのが法律だ。法律はすなわち天網ではなく、その一部分をある方向から切り取って作ったものに過ぎない。
人の横断用に信号機がある。車は見渡す限り全く来ない。信号は赤だ。この時安全を見切って横断をするのは違法ではあるが不正とはいえない。こういう時に欧米人は自己責任を以って赤信号になど頓着しないでどんどん横断する。日本人は車など来ないのに律儀に青信号になるまで待つ。
横断歩道は人の安全を守るものであるという本義に戻れば、自分の責任で安全を確認しさえすれば、信号の色如何に構わず渡って良い筈だ。
つまり、違法と不正は区別して考えねばならないということだ。
今回は10年前に半ばでっち上げられた政治資金規制法に、小沢君の秘書が違反したという疑いで逮捕された。これは違法の廉で逮捕となったのだから、それだけの事である。未だ起訴もされておらず違法の事実は証明されていないのだ。
ところが我が民草の一般は未だまだ「お上」意識が抜けず、法律もお上の定めたものであり、従って無謬と思い込む傾向が強いから、違法の疑いが生じただけでそのまま不正と思い込む。
「火の無いところに煙は立たぬ」と云うじゃないかと云われそうだが、火の無いところでも煙は立つ。脇から煙をどんどん吹き込んでやれば、火の無い所だって火事に見えてしまうこともある。
だから、清廉潔白のフリを求められる政治家にとっては致命的な打撃になるので、放ってはおかれなくなる。同様の供与を受けているが、未だ検察の追及を受けてはいない政治家は、競って「道義的な面から」お金を返却して口を拭おうとする。大体こんなところに道義的などというものを持ち出すのが可笑しいじゃないか。
繰返すが、政治は金が必要だ。政治家には献金が必要だ。そうでなければ誰も政治家になれなくなってしまう。だから金を受け取るのは不正でもなんでもない。受け取り方が違法かどうかは、その時の法律次第だ。
問題はその金の出所に対して、万民から付託された権能を不当に使って具体的な「お返し」をしたかどうかだ。その一点に恥じることがなければ、小沢君だって自民党の二階君だって、他の道義的人士だって、堂々としていれば良いのだ。また、万民の側でも、その点を糺すべく監視すればよいのだ。
今の新聞やその他のメディア、賢しら気な評論家などは言論よりも商売が先行するから、こういう本質になど迫ろうとせず、井戸端会議のお先棒を担ぐような程度のことしか云わない。
三権分立の意味というのは、小学校か中学校で教わった。なるほど、上手い仕組みだと納得した事を覚えている。
人間の社会では、権能を付託されたもの(=政治家・役人)と、対するに民草万民、そして言論・報道の三者が鼎立しなければならない。そうして初めて政治における三権分立のように、上手くバランスが取れた社会が出来上がる。
そうなると、政治家や役人、それに民草万人は最早中々変わり難いものだから、言論・報道のお粗末さが現代の諸悪の根源だということになるのだろう。
それより何より心配なのは北朝鮮のミサイルだ。
若田さんを乗せたスペースシャトルは概ね上手く飛ぶだろう。スペースシャトルなどは部品点数が百万を超えるそうだから、何とか上手く飛んで予定通りの軌道に乗るというのは驚異的な話なのだ。
こういう機械にはredundancyという、言い換えれば代理機能とか「あそび」という設計概念が組み込まれているので、少しくらいの故障なら何とかなるようにしてある。あそびの無い歯車機構はかみ合うのはしっかりかみ合うけれど、びくとも動かないそうだ。つまり、あそびとかゆとりは、機械の円滑な運動と、安全保障上も揺るがせに出来ない大事な要素なのだ。
しかし、かの国が今度打ち上げると言い立てている「試験人工衛星」(これも意味不明の言葉だ)には、「遊び」とか「ゆとり」とかいう思想がかけらでも入っているだろうか?どうもそうは考えにくい。第一あの国にそもそもそういう概念があるのだろうか?
そうなると、どこかで一旦小さな齟齬が生じると、それがどんどん成長してカタストロフィーになだれこむなどという事になりかねない。
何故かマスコミは未だ騒ぎ立てていないけれど、意地になっているものを止められないとしたら(どうも止められないような気がする)、せめて「とにかく故障せずに上手く飛んで、太平洋の何処かに無事落っこちて欲しい」と思うことしきりである。