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マックの文弊録

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2009.03.17
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◇ 3月17日(火曜日); 旧二月二十一日 辛酉(かのと とり): 仏滅、春の彼岸の入り

今日は気温も上がり、この辺でも四月頃の陽気になった。
日本のあちこちから「観測史上最も早い」と称して、気の早い桜の開花便りが届き始めているが、これはソメイヨシノという種類の桜についての話だ。明治の頃から日本人にとっての桜はいつの間にかソメイヨシノ(染井吉野)に席巻されてしまったが、日本の桜は他にも色々ある。第一ソメイヨシノ自体が、江戸彼岸桜と大島桜の交配で出来上がった(どちらが父親でどちらが母親かも分かっているらしいが僕自身は覚えていない)幕末期生まれの人口種だ。

寒緋桜や江戸彼岸桜は東京でも既に其処此処に花をつけ始めている。しかし、気象庁という役所が、全国にわたって一律の基準で桜前線とか開花予想を布告する都合上、ソメイヨシノを以って標準木としたのである。
つまりは、これもグローバリゼーション。このグローバリゼーションの煽りを喰らって、寒緋桜や山桜などその他の桜はマイナーな存在に貶められたのである。

ついでに言えば、古来東京の桜の名所の一つは隅田川の堤(昔は墨田川とも書いたから、これを略して墨提とも云った。)である。これは漱石君も「猫」の中で「月並み」の代表として掲げている。曰く、「この日天気晴朗なりといえば、一瓢を携えて墨堤に遊ぶような連中」が月並みの代表だと迷亭君に云わせている。

この墨提の桜は、江戸時代までは山桜や江戸彼岸、大島、八重など、様々な種類の桜が入り混じって花季の川堤を彩っていた。それぞれの種類の桜は開花の時期も咲いている期間も微妙に違うから、江戸市民は随分長期間にわたって花見を楽しんだということだ。

ところが桜の木というのは、元来それ程寿命は長くない。それで墨提の桜も段々老齢の木が混じるようになって来た。これでは大東京の桜の名所としてはみっともないとして、明治になって暫く前に近郊の植木屋が開発したばかりのソメイヨシノに植え替えてしまった。張本人は榎本武揚か勝海舟かどちらかだったらしい。その結果、墨提の桜は見事に一様化された。

ソメイヨシノはご存知の通り、山桜などとは違って葉が出る前に花が咲く。しかも一斉に満開となり、数日間の短い花季が過ぎれば恬淡として一斉にさっさと散る。気短で何事にも執着しない事(つまりはやせ我慢)を美徳とする江戸っ子の好みにはぴったりだったから、東京中の桜の名所で見る間に花見桜の主流の地位を席巻した。つまりはグローバリゼーションの結果としての寡占化である。

おかげで墨提の花見も随分せわしないものに様変わりしてしまった。以前のように、山桜、吉野、八重から葉桜と、どうかすると二~三週間にわたった花見時も、ぱっと咲いてぱっと散って、はいおしまいということになった。

折りしも文明開化の掛け声華やかなりし頃である。首都東京では欧化を急ぐことしきりであった。銀座通りの辺りは帝都の看板として古臭い商家を惜しげもなく壊し、変わりに英国から招聘した建築家に委嘱してレンガ造りの建物をどんどん建てさせた。
銀座通りというのは、元々は日比谷入り江を埋め立てて出来上がった造成地だ。じくじく湿った埋立地である上に、日本は高温多湿、夏は亜熱帯の気候にもなる。そんなところに寒冷乾燥地帯に最も適応するレンガ造りだから、住み難い事使い難い事は想像して余りある。付け焼刃の真似っこ街路は早晩取り壊される運命の仇花であった。

しかし、当時はレンガ造りの町並みが夕暮れの灯点し頃ともなれば、新式の瓦斯灯に映える様子はまさに文明開化の象徴であった。そのハイカラな町並みを彩るために植えられたのがソメイヨシノだ。♪昔恋しい銀座の柳♪というのは更に時代が下っての事である。

さて、想像してご覧うじろ。
かつての徳川様の居城、今は明治帝のおわします宮城を遥かに望む銀座の街路には、新築のハイカラなレンガ造りの建物が赤錆色の軒を並べる。
時は春。春は宵。しかるべく間隔を置いて植えられたソメイヨシノの漆黒の幹に、ほの白い花が彩りを添え、それが瓦斯灯の明かりに仄かに浮かび上がる。行き交う人々も胴長短足寸詰まりながら、誂えたてのシルクハットにフロックコートだ。夜目遠目という如く、遠くに瓦斯灯に照らされた風景として眺めれば大英帝国首都の倫敦もかくやと思い違うことも出来る。
どうです。まさに富国強兵を以って世界の大国に伍して行こうとする帝国日本の躍動感が感じられるじゃありませんか。

其処に地方から勅任県知事が己の上司である東京政府に詣でるため陸続とやって来る。彼らの目には帝都東京の景観は、これこそ新時代、文明開化の象徴として強い印象を与えたであろうことは想像に難くない。
それで、彼らはソメイヨシノの苗木を手に入れて(レンガ造りの建物は持って帰れないし、瓦斯灯も同様だ)新時代に向けて邁進する首都東京の象徴として郷里に持ち帰ったのだ。
これが、ソメイヨシノが日本中に蔓延する原動力になった。つまりはグローバルスタンダードに同化しようとする気持ちを煽るマーケティング戦略ですな。
(上は、僕自身が実地に見聞した事では無論ありません。伝聞や書物での知識に過ぎません。ひょっとしたら記憶違いや勘違いがあるかも知れません。よしんば間違っていても、知りません。「そりゃ違うよ!」という場合には、謹んでご教授を賜ります。でも、その場合でもこういう話の方が面白いことには変わりありません。ね?)

それが、時代が下って桜の開花予想、桜前線の指標にまで使われ、つまり本格的に桜のグローバルスタンダードになった訳だ。因みに、東京の桜の開花を公式に宣言する指標は、千代田区九段の靖国神社境内にある標準木に指名されたソメイヨシノである。僕にとって靖国神社は割合に身近な存在だが、未だにこの標準木なるものを発見し得ていない。これが標準木です、という名札など下がっていないようなのだ。(下がっているかもしれないけれど。)
多分標準木と明示すると、誰かが花芽を摘んでしまったり、ドライヤーなどで蕾を暖かくして早く咲かせようとする輩が出てくるのを恐れているのかも知れない。
これはつまり「情報のグローバル化の中での個人情報の保護」と云うことなのだろう。

だから、「家の庭のソメイヨシノはもう花を付けたのに、何故未だ開花宣言が出ないのか」と苦情を述べ立てても、靖国神社のエリートであるソメイヨシノが咲かない限り、民草のゴマメの歯軋りに過ぎないのである。
僕自身は先日根津から抜け出た上野公園の噴水脇で見た寒緋桜の花と、今日たまたま見つけた江戸彼岸桜の幾輪かの花で充分である。

それより、昨日辺りから黄砂が東京辺りでも随分飛んでいるらしい。アチラの方面からは色々飛んでくるが、どこかのボロロケットとは違って黄砂はともかくも季節の便りではある。しかし、洗濯物や布団を天日に干す習慣がまだまだあるこの国では、お気をつけになったほうが宜しかろうと思う。


さて、最近はなるべくその日の内に床に入るようにしている。
元来宵っ張りの朝寝坊のたちなので、本当は深夜になるほど頭が冴える。然し商社時代の大先輩に以前、「君、50台半ばを過ぎたら絶対日付が変わる前に就寝しなさい。僕はそうしている。これなら120歳まで人間は生きられるんだ!」と云われた。
この先輩は山崎豊子の「不毛地帯」にも登場した(無論脇役で別名である)方で、「帝大」の法科まででて商社に入った変人だが、長じて健康に良いと「タキオン水」なるものに凝り、僕が彼のオフィスに遊びに行くたびタキオン水で作らせた特注のうどんばかり食べさせてくれた。別段の事もなく普通のうどんだったけれど。
そのせいかどうか、まだご病気とかお亡くなりになったとは聞かないから、立派に存命のご様子なのはご同慶の至りだ。

ところで早く床に就くのは良いが、頭に興奮が残っていると、必ず2時間程で目が覚めてしまう。明瞭に覚醒するわけではない。半醒半睡の幾分朦朧とした状態だ。
こういう状態だと色々な想念が浮かんで来て、それらについて考えているのだが、最近は考えに合わせて何と頭の中でキーボードを打っている事が多いのだ。

僕は日本語入力に際してはローマ字変換を使う。一応ブラインドでキーを叩く事が出来、少なくとも同年輩の連中よりは「打鍵速度」は遥かに速いと思う。
然しいずれしてもキーを叩くスピードでしか考えが進まないのだ。例えば「哲学」が頭に浮かぶと「tetsugaku」と頭の中の指が動いて『変換』とキーを叩くのだ。この『変換』が首尾良く終わるまで次に考えは進まない。

このモードに入ってしまうと中々抜け出せない。キーストロークのスピード=思考のスピードである。それが余りに遅いから、頭の別の部分がイライラしている。そうして、「こんな風じゃ抽象的なアイデアなど絶対生まれないな。」と、頭の別の部分は苦々しく考えているのだ。
抽象的な概念を纏めるには、頭の中に様々な模糊とした観念や雰囲気が、時に交じり合い時に渦巻いていなければならない。イザナギとイザナミの国産みの時と同様でなければならないのだ。

しかし頭でキーボードがカチャカチャ動いていると、こんな状態には金輪際ならない。
「頭でキーボードを鳴らしているようじゃ、ケクレや湯川に及びもつかないのは勿論のこと、まともな考えなんか出てくるわけは無いぞ。」と頭の中の批判者は冷笑する。

半分眠りながら懊悩するのは気持ちの良いものではない。しかし、程なく頭の中の「指」も疲れてくるようで、結局は眠ってしまうのだが。
どうも歳をとった所為なのかなぁ。そうは思いたくは無いのだけれど。
第一これが一時の夢では無いとすると、120歳まではとても生きられないじゃないか。






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最終更新日  2009.03.18 00:19:10
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