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マックの文弊録

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2009.04.03
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カテゴリ:小言こうべえ
◇ 4月3日(金曜日); 旧三月八日 戊寅(つちのえ とら): 仏滅、隠元禅師忌

大正12年、関東地方を大地震が襲った。地震による火災で多数の死者が出たが、その際「不逞○○人の集団が井戸に毒を投げ込んで民衆の毒殺を行っている」との噂が巷間に広がり、それに煽られた一部市民により、在留○○人に対して集団リンチや虐殺行為が見られたという。

その一周年に当たる翌大正13年9月1日の東京日日新聞に「流言蜚語」と題して寺田寅彦が次のような事を書いている。

「例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだときに、その人を殺すか、ひどい目にあわせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ぜるとする。
----(中略:これを考察するには前提として色々な情報が必要だ、という主旨の文章の後で)----
しかし、いわゆる科学的常識からくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それ(毒薬)がいかに多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。
----(中略)----
仮にそれだけの(量の毒薬の)用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受け持ち方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見つけて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積もって、その上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜねばならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である」

これは東京・神奈川を中心に、首都圏で6千数百人もの○○人が殺害された大変な大事件だった。制止しようとした警官まで巻き添えになって殺されたとか、○○人と誤って数百人の中国人まで殺されたとか、関連する事件もあったらしい。独立を叫ぶ不逞○○人を弾圧するために、国家権力はこれを敢えて座視し、当時のマスコミも無責任な噂を垂れ流したという、政治的な背景を云々する説もあるが、一般的には大災害・大事件の際の流言蜚語の怖さ・愚かさの実例として記憶されているようである。

ところが寺田寅彦は科学者(彼は主に地球物理学を専門とする物理学者だった)としての立場から、有り得るかもしれない政治的な背景などの一切を捨象し去って、「若し本当にそれを実行しようとしたら」という前提の下に、淡々とこの事件の実行に必要なロジスティクスを論理的に分析していく。そして、結論としてそれが如何に馬鹿馬鹿しくも困難な所業であるかという事を示している。大震災を利用して首都圏市民を毒殺するなど、労働経済効率からいってもあり得ない。そんな事は常識を以って冷静に考えればすぐ分かるでしょ?と彼はそう云うのだ。
(スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発の原因を解明した物理学者R.P.ファインマンの場合も似たような例だった。)

大正12年といえば1923年。今を去る事86年の昔である。当時はまだ日本にはラジオ放送が無かった。
前年の大正11年には、上野公園で開催された平和記念博覧会で、会場と朝日新聞社間での試験放送が行われてはいた。しかしちゃんとしたラジオ放送の開始は大正14年まで待たねばならない。
従って一般の庶民が情報を入手する手段は、当時新聞か人づての噂でしかなかった。実際関東大震災は、日本のラジオ放送の開始を大いに促進するきっかけになったのである。
だから当時は大火災や大震災など、人々をパニックに陥れるような事件があると流言蜚語が飛び交い易い環境にあったのだ。

若し関東大震災当時に、今のようにラジオやテレビが普及していたらどうだったろうか?少なくとも情報不足による流言蜚語の蔓延は避けられただろう。
とはいえ、メディアの普及のみでは片手落ちである。
今やラジオ・テレビの他に、インターネットやケータイも大いに普及している。だから、情報を伝達するインフラは密に且つ広範囲に用意されている。しかし、これらは普及密度が大きくなったおかげで、一方では「私的」にも「恣意的」にも簡単に使える。当時とは異なった意味での流言蜚語が飛び交い易くなっている。そういう危険はある。情報があり過ぎての流言蜚語というのが有り得るのだ。これはネットでのイジメを始めとして幾らでも例がある。

要するに常識が必要になるということだ。寺田寅彦が本当に言いたかったことはそれだと思う。
新しい情報が飛び込んできた時にはそれを鵜呑みにするのではなく、受け手が自分自身で常識を働かせて、これを冷静に評価しなければいけない。彼はそう云っているのである。
そしてその事は情報インフラの普及した今日では、大正時代よりもより重要になっている。
情報は正確に多角的に迅速に与え、且つ収集する。然るに受け手は「常識」をフルに働かせてこれを受け取り、必要なら対処法を講じる。
そういう事なのだ。

明日4日から8日までの間に北朝鮮がロケットを打ち上げると息巻いている。今や息巻いているだけではなく、準備万端の様子である。日本がそれに文句を言ったり抵抗したりすると、「他にも用意が出来ている」(おぉ怖い!)手段を以って「無慈悲にこれを滅却する」と、例の滑稽なくらい悲憤慷慨調のテレビ放送で繰返している。一衣帯水の他国の領土の上に剣呑なロケットを飛ばしておいて、「四の五の云うなら、ドンパチやるぞ!」と云う訳だ。これはもう戦争の恫喝以外の何ものでも無いじゃないか。
ところがその想定飛行経路の直下に当たる東北地方の自治体では、発射された場合の速報を地域には知らせないと決めたそうだ。理由は「徒に民心を不安に陥れる惧れがある」のだそうだ。
ニュースでそれを聞いていて咄嗟に、「そりゃおかしいだろう!逆だろう!」と思った。これは根底に「民は知らしむべからず。依らしむべし。」という時代錯誤の感覚だ。

正確な情報はどんどん遍く、且つ遅滞なく知らせるべきである。
「落下する可能性は非常に小さい。」と抽象的にたかをくくるべきではない。可能性が小さいというのなら、何故そう判定できるのかという事までをちゃんと筋道立てて知らせるべきだ。
又万一落下した場合、「何がどの程度起こり得るか」、又それと同時に「何は起こり得ないか」と云う事も予め遍く知らせるべきである。
加えて「四の五のドンパチ」の可能性の有無にも冷静に言及すべきだろう。全く可能性が無いならそれに越したことは無い。しかしその場合にも、かくかくしかじかの理由で全く可能性は無いと云うべきである。

数少ないPAC3がボケッと天を向いている映像を映したり、イージス艦の模型を並べた日本列島の絵を映したりしたって何の意味も無い。あんな程度のもの、我々はイラク戦争以来とっくにテレビで見慣れてしまっているのだ。

知らせるべき情報を制限しておいて、「平静に受け止めてください」などというのは如何にも国民を馬鹿にしている。そういえば、60数年前にも似たようなことをやっていた話を聞いたっけ。

東北地方の皆さん、そんなんで大丈夫ですか?あなたたちの郷土の真上をいつ落ちるか分からないボロロケットが飛んでいくんですよ!それも、明日か明後日か・・・・・






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最終更新日  2009.04.04 02:04:59
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