カテゴリ:よもやま話
◇ 5月5日(火曜日); 旧四月十一日 庚戌(かのえ いぬ): 友引、こどもの日、立夏、端午
今日は二十四気の立夏。 連休の始めの2日は今年の「八十八夜」であった。これは立春の日から数えて88日目にあたる日の事で、やはり太陽暦である二十四気の気節を基準とし、暦の上では雑節の一つとされる。「今年の」と断る必要があるのは、地球の公転運動のゆらぎの所為で毎年これが(そして二十四気も)同じ日付になるとは限らないからだ。 「八十八夜の別れ霜」という言葉があるとおり、北東から南西に斜めに長く延びる日本列島でも、流石にこの日以後になると霜の降りる事は滅多に無くなるのだ。 そして今日の立夏。新緑は目にいよいよ眩しく映え、春は段々と夏に移って行く。南方の洋上では台風の発生が報じられ、里山を歩けばミズキやヤマボウシ、それに松や栗など、普段は目立たない木々が花をつけて思わぬ妍を競っているのを見かける頃でもある。 今日は又こどもの日、端午の節句でもある。 旧暦(太陰暦)では、五月は十二支の「午の月」とされた。この午の月の最初の午の日を、月の端め(始め)の午の日という意味で「端午」といったのだそうだ。 「午」の音は「ゴ」であり数字の五に通じる。それでやがて五月五日が本来の端午の日に変わった。昔は月数と日数に同じ奇数が来るのをめでたいとして、これを節句として祝った。これは三月三日の桃の節句、七月七日の七夕、九月九日の重陽の節句も同様である。 端午の節句はご同様に中国にその歴史を発するが、元々は邪気を払い健康を祈願する日であった。ちょうどこの頃野に生える蓬(よもぎ)や菖蒲を飾ったり、これを浸した酒を呑んで、無病息災を願ったのだそうだ。蓬も菖蒲も葉に独特の香りがあり、これが邪気を払う力があると信じられたのだ。つまり、この頃は端午の節句は男女平等に祝うものであったわけだ。 それがわが国に伝来して鎌倉時代(武家が公家を凌駕して政治権力を握った時代)になると、菖蒲は「尚武」に通じる(つまりは駄洒落ですな)と云う事で、男の子中心のお祭りになった。菖蒲の葉の形が剣先に似ている(つまりはこじつけですな)こともあったという。併せて、鎧や兜のミニチュアを飾り、鯉幟も庭先に掲げるようになった。鯉幟は勢い良く急流を泳ぎのぼる鯉のように男の子が立身出世を果たす事を祈ったのだという。 こうなると何となく端午の節句における女性の影が薄くなってしまうように思える。しかし、蓬餅は元々邪気祓いの縁起物であって男女を区別するものではない。又端午の節句に柏餅を戴くのも、柏の葉は新しい芽が出るまで古い葉が落ちないという性質があり、これが血筋が絶えることなく引き継がれるという縁起になぞらえられた所為で、これも別に男子女子を区別するものではない。更に云えば、やはりこの日の定番である粽(ちまき)は、古くは三世紀の中国の屈原という政治家・詩人の故事に因むものであり、これも男子女子の区別は無い。 つまりは端午の節句が男の子の祭りだといっても、それは飾りや幟などの形式だけの領域の話であり、コト食べ物に関する限り男女の格差はないのだ。 端午の節句というと、♪柱の傷は一昨年の、五月五日の背比べ♪とか、♪甍の波に雲の波、重なる波の中空に♪という唱歌を思い出す。貧乏教師の長男だった僕には、父が紙で鯉幟を作ってくれた。尤もこの鯉幟は外出している間に強風に飛ばされて無くなってしまった。そして夕方家族で打ち揃って銭湯に行けば、湯船には菖蒲の葉を束ねたのがちゃんと浮いていて、手で掴んで絞るようにすると良い香りが手に移ったものだ。 そう云えば東京生まれの父は、味噌餡の柏餅が好きだった。小豆餡ではなく味噌餡の柏餅は、今は知らないが僕の子供の頃の岐阜では見たことは無い。池之端の天神下の交差点にある和菓子屋にはこれが置いてあって、たまたま上京した父と通りかかった際にそれを見つけて父は感激していた。 今は端午の節句のこの日も、ゴールデンウィークの中に埋もれ、家族は揃って出払って留守にしてしまい、家に菖蒲湯をたてて粽を食べ、皆で節句を祝うなどという事も余りないのではなかろうか?明日は一日遅れだけど湯島辺りにでも出かけて味噌餡の柏餅でも買ってこようか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.05.05 17:52:16
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