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マックの文弊録

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2009.05.21
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カテゴリ:小言こうべえ
◇ 5月21日(木曜日); 旧四月二十七日 丙寅(ひのえ とら): 赤口、小満

今日は二十四気の小満。立夏に続く二十四気で旧四月の正節だ。「万機高揚して、諸事満ち足りる候」だそうだ。都内の公園や並木の緑も濃くなり始め、初夏の陽射しに映えて美しい。しかし、吹き渡る風には未だ梅雨時の湿気は感じられず(沖縄や奄美では既に梅雨入りしたそうだが)、時に涼やかで爽やかだ。農事にあっては麦の穂に実が充ちて来る。日本には麦秋という美しい言葉が有るが、この麦秋ももうそろそろの事でもある。

気候としては申し分の無い頃ではあるけれど、世の中は新型インフルエンザがいよいよ関東地区にも波及したり、不況不景気は相変わらずだし、どうも小満どころではない。

その中で昨日「GDPの伸び率が戦後最悪の状況になった。不況からの回復の道のりはまだまだ遠い。」と報じられ、公共放送(僕はニュースは基本的に公共放送でしか見ない。民放のニュースは扇情的で迎合的過ぎるからだ。)では、トップニュースになっていた。
要約すると、今年1~3月期のGDPの前年同期対比が最悪の数字になり、年率にすると-15.2%の減となる見通しだ、というのだ。

公共放送のアナウンサーは感情を殺して喋ることにかけては定評が有るが、相変わらず平板ながらそれでも精一杯深刻そうに原稿を読んでいた。これで、「あーあ、また暗いニュースか」と気が滅入る思いをした人も多かろう。
僕もそんな雰囲気で観ていたが、その内「これは変だぞ!」と思い始めた。

我々は最近エコ生活とか地球温暖化防止などと云って、環境問題に関して神経質になってきている。「環境を守る」、「環境をこれ以上破壊しない」というのは、よき市民の常識であり義務であると感じるようになっている。悲観論者は、今回の豚由来の新型インフルエンザの流行にしても、営々と環境を破壊してきた人類に対する自然からの報復であるとすら云っている。

その一方で、GNPやGDP、海外輸出額は伸びていかなければならない。経済や金融に関しては、そういう相変わらずの成長至上主義に喜憂の尺度を求めるのは、これはおかしいんじゃないか。

人間と動物の違いというものを、学校の頃に教わった。
二足直立歩行をするか、言葉を持っているか、道具を使うかどうか。その辺が当時の基準であったと記憶する。こういう考え方は人間を進化の頂点に置くという、人間中心の価値観を下敷きにしたもので、当時から僕にはしっくりしない印象があった。
その後色々な研究の進展や新たな発見によって、二足直立歩行はやむを得ず獲得した、動物としては一種の「奇形」だ。背骨はつり橋の牽索のように重い内臓を保持するには理想的であったのが、これを90度立ててしまった事によって本来の設計思想には全く反する構造的な重圧に耐えなければならなくなった。殆どの内臓疾患や、ぎっくり腰、肩こりなどは「失敗作」としての人間固有のものだ。直立した脊柱の天辺に脳が乗る事で、人間の脳は発達しすぎてしまった。
言葉にしても、鯨や霊長類、更には鳥類にも言語と認められるものがある。道具にしても、チンパンジーなども自ら作成しこれを活用している事例がある。などなど、元来人間の優位性や動物との差別化の証拠であるとされてきたものが、どんどんその根拠を失ってきている。どうも人間は進化の頂点ではなく隘路であるらしい。

僕は、人間とそれ以外の動物を区別する最も際立った、そして重要なものは、「生きるためのエネルギーを何処にどうやって求めているか」だと思う。つまりは、古くは「人間は火を発見し、それを自らのものとした」と云われた、アレである。

人間以外の全ての生きとし生けるものは、太陽エネルギーを与えられるがままに享受している。だから気候の変動によって、栄えたり滅んだりしてきた。人間も根本的には同じである。電力、石油資源や石炭、原子力、これらの全ても元々は太陽エネルギーによって育まれた資源である。ただ、人間の違うところは、現在の太陽エネルギーを与えられるがままに享受するのではなく、過去の蓄積、つまり埋蔵資源までも積極的に掘り出してこれを消費する点である。こういう事業は物理的には地球という環境のエントロピーをどんどん増大させる事になり、環境を不可避的に改変していく事になるのだが、その議論はここではしない。

大事なのは、生きるためのエネルギーとして享受すべき量を超えて、どんどん掘削調達し消費するという、人間以外の動物(植物も同じ)では決して行わない行為をするというのが人間の本質的な定義であろうという点だ。
そして、全ての経済行為は此処にこそ、まさにその根拠を持つものであり、その隆盛を我々は進歩とか発展だとずっと思ってきているという事なのだ。

つまり、我々が当然期待できる、或いは期待したいものとして何の疑問もなく考える、「経済的に安定した豊かな社会」とは、それ自体が既に「環境に優しい、自然に優しい」エコ社会とは本質において相反してしまうものなのである。

さて、今年の1~3月期のGDPを年間に外挿すると前年対比で-15.2%の減少となる。これは戦後最悪であり、今後不況を脱するまでの道のりは遠い、というのは上述したとおりである。
一方今年のGDPを金額で表すと(うろ覚えだけど)516兆円だそうだ。こんな金額は身近では無いので、直感的には分からないが、平成15年当時のGDPとほぼ同じなのだそうだ。今から6年前だ。それで公共放送は、「わが国の経済は6年前に後退してしまう可能性が強くなりました。」と悲痛(そうに下手な演技をして)いう。

この点こそ僕は「変だぞ!おかしい!」と思うのだ。
「未だそんな事をいうのか?『昨日のエコでは間に合わない』とCMのように繰返していながら、その一方で経済や金融面では相変わらず成長至上主義のお先棒を担ぐのかい!?」

6年前の平成15年、我々の生活は其処に戻る事に怖気を奮うほどひどかっただろうか?僕個人としては、今とそれほど変わらない、むしろひょっとしたら今よりも幸せな時代であったような気持ちすらする。

未だに「経済成長が善」とする考え方は、畢竟地球資源のこれ以上の簒奪を促すものである。それに地球上の資源・資産の保存則というものを考えれば、所謂発展途上国への圧力を強化し、世界的に貧富の差の拡大を推進するものでしかないではないか。

普段我々は、エコ社会やエコ生活の推進と、GDPの伸長を望む気持ちを何の矛盾もなく頭の中に置いているが、これを筋道立ててつまびらかにし、この両者の間の大きな矛盾とどう折り合いを付けていくべきかという点に光を当てていくのが、ひいては「何故平成16年当時のGDPではダメなのか!?」と敢えて問いかけていくのが、日本の指導的な言論機関・報道機関の責務ではないか?

そう云えば同じニュースの中で、エコカーの需要急増を睨んで業績回復を狙う、とか家庭用太陽光発電システムの開発を推進する、というのが「経済回復への明るい可能性」と、同じアナウンサーが(ここは無理して微笑みながら)喋っていた。
出来上がったものは確かにエコには貢献できる。エコカーは埋蔵化石燃料の使用を低減できるだろうし、二酸化炭素の排出量も減らせる。太陽光発電も同様だし、特に自然に存在する最も低エントロピーのエネルギーを、しかも地球外から無尽蔵に(少なくとも後数億年は期待できる)受け取れる。
しかし、製造・増産に費やされるはずのエネルギーは相変わらず埋蔵化石燃料に依存している事を、我々はちゃんと知らなければならないし、太陽エネルギーの積極利用が進めば進むほど、地球上に蓄積される地球外由来の廃エネルギーをどう処理するかも考えなければならないだろう。

我々は経済・金融活動の伸長は、本質的にエコロジーとは相反するものである事を忘れてはならないのだ。そうでなければ、エコはエゴでしかないのである。
そして公共放送の賢者諸君には是非にも「見識」という言葉とその意味を改めて考えて欲しいのである。






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最終更新日  2009.05.21 15:26:20
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