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マックの文弊録

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2009.05.24
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◇ 5月24日(日曜日); 旧五月朔日 己巳(つちのと み): 大安

老松さん;
湯島近くの旧岩崎邸にいらした時のお話面白く拝読しました。
旧岩崎邸は、明治の中頃(1896年)に建てられた木造洋風建築だそうですが、途中の戦争などにも拘わらず百年以上もの時を経て今まで残ってきたのは素晴らしい事ですね。運も良かったと思いますが、三菱グループの人達がこの建物の維持保存のために相当の努力をされたのだろうと思います。

ゲートを入って、高台になった敷地を左手に見ながら回りこむように坂道を上り詰めると、いきなりという感じで洋館の正面に出ますが、あの黄色(あれは単なる黄色というには適当では無く、「カスタードクリームの色」というのが相応しいでしょうね)の二階建て洋館が眼前に出現するのは、いつも(といっても僕もせいぜい二度の訪問経験しかありませんが)ちょっとした驚きです。

洋館は部屋数が十数もあり、それぞれは当時の粋を凝らした意匠が施されていますね。どの部屋にも暖炉が切られ、しかもそのどれにも黒く煤けたあとが残り、決して装飾ではなく実際にちゃんと利用された事がわかります。それに、これは比較的最近になって再現されたそうですが、部屋毎の金唐草模様の壁紙は流石に見事です。

そういう中を着飾った貴顕淑女が緩やかに経巡り談笑する。そんな光景が目に浮かぶようで、セレブ好きなあなたを魅了したであろう事は容易に想像出来ます。きっと「こんな所に住んでみたい!」と思われた事でしょうね。

僕はしかし、仕切りのロープ越しに乗り出して見る事が出来たトイレ(当時は「はばかり」とか「厠」と云っていたはずですが)に有った男性用の小便器のデザインに興味を惹かれ(是非使い心地を実際に試してみたかったけれど・・・残念!)、更にその奥の小部屋に垣間見えた便器が今と同じ洋式であるのに驚きました。明治20年代から30年代の東京の下水事情は知りませんが、まさか岩崎財閥の迎賓館とも言うべきこの洋館のトイレが「ポットン便所」では無かっただろうとは思うのですが・・・。

僕はどうしてもこういう下世話なところに興味をそそられるタチですから、こんな事を書くとまたあなたの顰蹙を買うに決まっていますね。

本当はこの洋館のバックオフィスとも言うべき厨房にも大いに興味があるのですが、スタッフを捕まえて聞いた話では厨房も、そしてもう一つの必需品であったはずの浴室も非公開で見ることは出来ないのだそうです。この洋館の食堂は、今岩崎邸の概要を説明するビデオシステムが置いてある部屋だそうで、その脇のドアの向こうに厨房があって、お客の食の進み具合をそのドアから覗き見ながら、当時の使用人が厨房に指示を出し、給仕をしたのだそうです。

あなたは眉をお顰めになるでしょうが、僕は折角百年以上も保存された文化財である以上、そういう人間必然の営みに拘わる部分をも、或いはそういう部分こそちゃんと展示解説して欲しいのです。

しかし、「住みたい」というあなたの気持ちに水を差すようですが、この洋館は当時から接客用に使われ、岩崎家の人々の日常生活の舞台は隣接する和館であったそうです。やはり日本人には和風の空間の方が普段の暮らしには合っていたのでしょうね。

さてこの和館ですが、今でも洋館に隣接して残っていますが、実際に行ってみると座敷が有るのみで、やはり生活のバックヤードの部分が無い。これらの部分は時代が下ってくる過程で取り壊されたり、建っていた土地も切り売りされてしまったようです。

ちょっと調べてみたら、元々この土地は幕末までは越後高田藩の江戸屋敷があったのだそうです。当時の大名の江戸屋敷は小藩といえども今の常識を越えた規模です。その跡地を襲った旧岩崎邸も敷地内の建物が20棟以上あったのだそうで、それが今の規模になるまでには随分多くの建物が割愛され、和館の「生活臭」の部分もそれと共に失われてしまったのでしょう。それは僕にとっては大変残念です。だって生活臭の無い座敷や接客部分だけの邸宅跡なんて、ねぇ。

因みに直ぐお隣ともいえる東大の本郷キャンパスは、元々加賀前田藩の江戸屋敷であった事は、良く知られています。夏目漱石の小説によって三四郎池と呼ばれることになった池は、江戸時代には前田邸の育徳園心字池だった事は、あなたもご存知かもしれませんね。
江戸幕府は参勤交代を布いた際に、各大名の江戸屋敷を領地の地理関係に倣って配置したのかもしれません。

こうやって、あなたからすれば色々粗探しをしてしまうのが僕の悪い癖だといわれそうですが、これは僕のさがとでもいうべきところなのでお許しください。しかし、旧岩崎邸の為に少し申し上げれば、高田藩本来の大名庭園を無理やり芝庭にしてしまった愚を咎めるのを置くとすれば、芝庭の周辺には「隅田の花火」など各種の紫陽花の植えられた一角や、ソメイヨシノの植えられた一角、そして楓の植えられた一角があるので、それぞれの最も美しい頃にいらっしゃれば、時々のセレブの気持ちが味わえることでしょう。

もう一つ付け加えれば、同じ旧財閥系、或いはセレブの生活を忍ぶには、近くでは千駄木の団子坂にある旧安田楠雄邸、それに目白椿山荘の傍にある蕉雨園などにも是非いらっしゃるようお勧めします。特に後者は、明治30年に当時の宮内大臣田中光顕伯爵によって建築され、後に講談社の野間家のものとなった建物で、堂々たる唐破風屋根を戴いた玄関は、多くのテレビや映画の撮影に使われた所為で、あなたも必ず一度は見た記憶があるはずです。何より建物全体は往時のままに残されており、暖炉のある食堂や集会室、それに座敷などはもとより、厠も風呂も当時のままに残されています。旧岩崎邸とは異なり、当時の生活が丸ごと忍ばれるのですね。

ただ残念ながら一般公開はされていないので(お茶会などは開かれているようですが)、入場料を払えば誰でも見学できるというわけではありません。

僕は幸い講談社に縁のある友人を知っていますので、若しあなたが当時のセレブの生活の表向きだけでなく、丸ごと追体験してみたいとおっしゃるのなら、何とかできるかもしれません。少なくとも僕は岩崎邸よりは蕉雨園の方が好きだし、史跡としても貴重ではないかと思うのですね。若し実現できる暁には、蕉雨園がどうして松尾芭蕉に縁があるのかもお話してあげましょう。

千駄木の旧安田邸は未だ僕も行く機会がありませんが、ここもあなたには面白いだろうと思います。でもどうも気紛れにしか公開しないようで、現在は水曜日と土曜日にしか見学できないそうです。

東京は江戸開府以来400年間も実質日本の首都であった町なので、随分失われているとはいえ探せば色々興味をそそられる場所があります。

一つだけ例を挙げれば紀尾井町です。今紀尾井町といえば、赤坂プリンスホテルやニューオータニなどの立ち並ぶ、何となく高ビーな町ぐらいにしか思われないでしょう。しかし、本来はこの界隈に紀州藩と尾張藩、そして彦根藩井伊家の江戸屋敷が有ったことから、その一字ずつを取って紀尾井町と呼ばれるようになったのです。
こういう背景知識をちょっとかじった上で、それぞれの興味と嗜好で歩いてみると、東京というのは中々味のある町でもありますね。






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最終更新日  2009.05.25 23:16:31
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