カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 6月5日(金曜日); 旧五月十三日 辛巳(かのと み): 大安、芒種、熱田神宮祭
拓男さん; 時は春、 日は朝(あした)、 朝は七時、 片岡に露みちて、 揚げ雲雀なのりいで、 蝸牛枝に這ひ、 神、そら知にしろしめす。 なべて世は事も無し。 ---------- 良く知られたブラウニングの「春の朝(あした)」という詩です。 尤も「良く知られた」といっても、「僕らの時代までは」という注釈が必要なのかもしれません。今でもこの詩は学校で教えているのでしょうかね? 先日アジサイの写真を撮ろうと思って、文京区の白山神社に行ったのです。白山神社は境内を中心に約三千株のアジサイが植えられており、毎年6月には「文京あじさい祭り」が催されます。今年は6月6日からの一週間があじさい祭りの期間だそうです。お祭りの期間中は、「近隣のプライバシーの保護」のため非公開とされている富士塚も公開され、「歯ブラシ供養」などという珍妙な催しもあり、それなりの人出があります。会期中は人が邪魔になって中々良い写真が撮れないので、ちょっと早めに出かけたのです。人出はお陰で少なかったのですが、未だ少しだけ花期には早く、アジサイ繚乱というほどまではいきませんでした。 それでも、色づき始めた花は中々に美しく、何枚か気に入る程度の写真は撮れました。 アジサイは一輪だけで撮る写真より、花群れを撮ったり、祠などを背景に置いて撮ったりする方が風情があるのです。でも、僕はご存知のように接写するのが好きだから、幾つか接写写真も撮りました。そうして、「ここに蝸牛が居たらなぁ」と思ったのです。 どうもアジサイという花は接写しても花だけだとやはりいささか風情に欠けるところがある。例えば雨の雫が花に留まっているとか、そこに蝸牛が這ってでも居てくれたら「絵作り」としては満足できるのですね。 その時、「そう云えばこの頃蝸牛を見なくなったなぁ」と思ったのです。 以前は、生垣や野面にごく普通に見かけたものです。これも環境の変動の所為なのかどうか。 蝸牛の連想から、冒頭のブラウニングの詩を思い出したわけ。 そして、又「そういえば雲雀も見なくなったなぁ」と思った訳です。 今君の住む土地には未だ蝸牛や雲雀は未だ健在でしょうか?加えて云えば岐阜県では県の花になっているレンゲもこの辺では見かけません。無論喧騒で畑も田んぼも無い都会にレンゲの咲く場所など無いに決まっていますが、郊外の田畑のあるような場所に行っても見かけません。あれは関東の土質には合わないのでしょうかね。そちらではどんな様子か、ついでの時にでも知らせてください。 更についでに、「春の朝」という詩の原文も思い出したので、おまけに掲げておきます。上田敏の訳と対照すると、つくづく「翻訳とは単なる直訳とは全く違うなぁ」と今更ながら感心しますね。 The year's at the spring, And day's at the morn; Morning's at seven; The hill-side's dew-pearl'd; The lark's on the wing; The snail's on the thorn; God's in His heaven---; All's right with the world ! ところで今日6月5日は二十四気の「芒種」。 稲科の植物の実を包む穎(えい)の事を芒(のぎ)と云うそうですが、この芒を持った植物の種をまく頃という意味だそうです。 今は実際の稲の種蒔きはもっと早く行われるようになっていますが、いずれにしてもこれから農家は忙しくなる季節です。入梅ももうそろそろでしょう。梅雨に入れば暫く鬱陶しい日々が続きます。尤も、蝸牛君には会えるチャンスが増えるかもしれません。 いずれにせよご自愛のほど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.08 13:21:05
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