カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 6月6日(土曜日); 旧五月十四日 壬午(みずのえ うま): 赤口
先日地下鉄に乗っていて不思議な光景を目にした。 都内のある地下鉄駅のホームだ。ホームには電車を待つ人のために簡単な椅子がベンチ状に置いてある。その一つに青年が腰を下ろして食事をしているのだ。食べているのはコンビニで売っているようなスパゲティ。ポリスチロールの丼に入っているトマトソースらしいスパゲティを、彼は箸を使って食べている。身なりは決して汚くは無く、白いシャツを身に着けた姿はむしろ清潔で、風体にも崩れたところはない。どこかのまともな大学の学生だといってもそのまま通るような青年だ。それが椅子に腰を下ろし、辺りを憚る様子も無しに淡々とスパゲティを口に運んでいるのである。都心の地下鉄のホームだから何人もの人が歩き過ぎて行く。彼は停車しているこちらの電車に乗るそぶりも、周囲を気にするそぶりも無い。ただただスパゲティを食べる事に専念している様子だ。 やがて僕の電車が動き出し、彼とスパゲティは車窓を流れ過ぎていった。 これをそのまま何処かの食堂に移せば、何でもないごく普通の食事の光景になるのだが、何だか非常に異様に思えた。 最近は衆目の中で平気でものを食べる人間が増えている。カップに入ったソフトドリンクや缶コーヒーを飲むのは勿論、おむすびやハンバーガーを食べたりする連中を、ホームや電車の中で見かけることも多くなった。そういう光景を目にするたびに僕は決していい気はしない。以前はこういうことをする連中は例外なく若年層ばかりであったが、最近は中年の領域に入った人まで衆人の中で平気で飲み食いしているのを時々見かけるようになった。 しかし、今回のように箸という食器を使っての飲食行為を見かけたのは始めてであった。しかも公園とか広場と云った場所ではなく駅のホームだ。駅のホームは、これはいわば往来だ。往来でメシなんか食うか! とムラムラしてくると同時に、これを現代の社会現象として敷衍し、批評めいた論理を組み立てようとした。僕の悪い癖だ。 しかし、彼の食べているのがハンバーガーや握り飯だったら多分違和感は多少小さかったように思う。或いは、二人か三人程度で適当に会話しながらであっても、やはり僕の感じた違和感は相対的に小さかったと思う。勿論十人もの人間が駅のホームに群れて何かを食べていれば、これは違和感を通り越してはた迷惑も甚だしい。 要するに、身なりの悪くない青年が独りで箸を使って食事をしていた事が大きな違和感の原因のようだ。食べているものは余り関係ない。スパゲティがカツ丼であっても大差なかったろう。 そこでふと気がついた、ひょっとしてこれは昔では普通の光景ではなかったか?人が大勢いる場所で弁当を使ったり、飲食をするのは以前からあった。桜の花の下に茣蓙を敷き、車座になって飲み食いするのは今でも普通にやることだ。傍らを幾多の赤の他人が通行していても平気だ。つまりこれも「往来での飲み食い」だ。 相撲見物でも同じだ。升席に入って茶屋がつけば飲み食いはむしろ当たり前だ。芝居見物でも「幕の内弁当」というのがある。周りは見知らぬ人ばかりだし、全員が飲食をしては居ない。 昔の街道を行く旅人はどうだったろう?想像でしかないが、路傍で独りで弁当を使う旅人は何人も居たような気がする。 そうなると、あの時僕の感じた違和感はなんだったのだろう? 一つは場所の不整合というものがあり、もう一つは彼が独りで淡々と食べていた。そういうところにあったことは事実だ。それも非常に強い違和感を覚えた事も又事実だ。何故だろう? それに、違和感を覚えたのは僕だけだったろうか?周りの人は何も感じていなかったのだろうか? 結局釈然としないままに、非常に気になっているのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|