カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 6月10日(水曜日); 旧五月十八日 丙戌(ひのえ いぬ): 仏滅
近頃必要があって古くからの知り合いと手紙でのやり取り(といっても、手紙自体はパソコンとプリンターを使って「書く」のだけど)をしていて叱られた。 相手の名前には「恵」という字が含まれているのだが、自分の名前の字は「惠」であって「恵」ではないと。 この人とはお互いが子供時代からの付き合いで、殆ど身内といいくらい身近な間柄なのに、今の今まで正式な名前が惠の字を使うとは知らなかった! 人様の名前に関しては時々こういう経験をする。 ごく身近にも「真」の字を「眞」と書く人が居て、この人は「眞」の字を使うことにまことに拘っている。 名前には先ずこれを付けた人、つまり普通は親だが、その名付け親の思い入れがあり、本人もこだわりを持っているのが普通だ。だから似てはいるけれど違う字を使ってしまうとご機嫌を損ねる事になる。 親は、くろがねのように逞しく有為な男になれと「鐵男」と名づけてくれた。ところが周りの人は「鉄男」と書いてくる。これじゃぁ「カネを失う」という事になってしまうじゃないか! これではやはりご機嫌を損ねでしまうのは仕方のないことだろう。 何故こういうことになるのか。漢字には古字、本字、俗字、異体字、そして新字体、旧字体などという区別がある所為だ。 我々の普段使用しているのは常用漢字といって、文科省の役人が決めたものだか、大まかに云うと「一番易しい(画数の少ない)」という基準で選ばれている(のだろう)。常用漢字では、旧字はより画数の少ない新字体に改められているし、本来の漢字の意味というものも重視されていないように思う。 例えば上に掲げた「鉄」では、「鐵」は金文文字で、「鐡」は俗字だ。これら本来の「鉄」の漢字(常用漢字は対象外)の旁は「テツ」という音を表し、「赤黒い」という意味を持つ。つまり「赤黒い色をした金属」というのがこの漢字の表すものである。それが「鉄」では全く分からない。 もう一つ例を挙げると「円」だ。これも常用漢字で素性をいえば俗字の略字である。 昔のお札には「百圓」と、円ではなく「圓」の字が使われた。この「圓」の字は「員」という字を国構えで囲んでいる。 「員」の字の下の部分「貝」は「鼎」の字から変化したものだ。鼎(かなえ)は青銅や土などで作られた食物を煮る容器だが、生贄をこの鼎で煮て神に奉げたことから神器となり、祭器の中でも特に重要なものとされた。従って「鼎の軽重を問う」という成句にあるように、その重さ、つまり大きさや中身の多寡を競ったり、また鼎の個数を数える事は神様の格という点を表すこともあって大変重要な事だった。 この貝(鼎)の上に○を表す口を乗せることで「員」という字は丸い鼎を表す意味になり、鼎を数える事から「丸い」という意味と共に「数える」という意味も持つようになった。 それが更に転じてヒトやモノの意味になり、つまりは員数とか職員などという時の「員」の由来になるのだ。 さて、「圓」は先ずは「丸い」という意味だ。これに「数える」を併せると「数える対象としての円いもの」になる。・・・ほら、つまりは「お金」になるではないか! 「員」を囲む国構えには、この円いもの(お金)が野放図に何処かへ行ってしまったり、悪さをしたりしないように枠をはめる、つまりちゃんと制御する、というニュアンスが見える。 そこまで分かると、まさに我が国の通貨名称としてはピッタリ相応しいではないか! だからわが国の通貨名称に「円」の代わりに「圓」を使い続けていれば、慾に駆られて浅ましくもバブルに踊ったり、本来アメリカの国内問題であるはずのリーマンショックにあたふたさせられたり、ひいては若い世代に大迷惑をかける国債をべらぼうに発行してしまうというような事も無かったろうと思える。 こういった含蓄は「円」という字を幾ら睨んでいても決して出ては来ない。漢字本来の意味や形に戻るから理解できるのである。 そこで僕としては厳かに「常用漢字なんか廃止してしまえ!」と提案したい。 言い換えれば、漢字制限を撤廃して旧字を復活せよと提案したいのだ。 思えばわが国の文字は全て漢字由来だ。平仮名も片仮名も元は漢字である。 日本には元々話し言葉としての「大和言葉」は有ったが、それを形として固定される文字はなかった。我がご先祖様たちはこれを今から千五百年以上前に中国から輸入し、これを大和言葉と合体させ、換骨奪胎して日本流の文字として定着させた。 だから日本で使われる漢字は(仮名も含めて)決して単なる輸入品ではなく、日本の国情、日本人の心情にしっかり定着している日本の文字だといえる。 漢字には「表情」がある。表情とは文字の由来による。 愚かな毛唐どもがこの話題になると必ずと云っていいほどする質問は、「日本にはカンジは幾つあるのか?」である。「普通に使われるのは約3千字。少しばかり知識のある人なら6千字くらいは使いこなす。」と答えると、「Oh! ○△×!?」という表情が返ってくる。「子供たちは学校では何文字くらい覚えなければならないか?」という質問には、「大体12歳くらいまでに約千文字かな。」というと、「そんな沢山の文字を子供に覚えさせるのは理不尽だ。」と来て、「その点英語は26文字で済むから合理的だ。」という事になる。 こちらも負けてはいない。「26文字だけ覚えて英語が分かるのか?ちょっと聞くが単語の数はどうなんだ?やはり数千語くらいは知っていないとダメだろう?日本の文字はそれぞれ一字ずつが全部意味を持っているのだ。それも部首の組合せやモノの形で複合した意味を表す。英語の単語は文字数も決まっていない。その点漢字は一字という固定長でちゃんとした意味を表せる。どっちが合理的だといえるか自明ではないか。」と、そう答えると相手は何も云えなくなる。ザマミロである。 日本は漢字を使う東アジア文化圏では、オーソドックスな漢字の歴史が良く残された国の一つだ。東アジア文化圏では未だちゃんとした漢字を継承しているのは、他にはベトナムと北朝鮮くらいだそうだ。 漢字の母国と思われている中国は、近年略字をどんどん捏造して本来の漢字文化の宗主国としての面影は最早ない。昔は中国人とは言葉が通じなくても文字を書く事によって意思疎通が図れたけれど、こういう略字の使用が進む事でそれも困難になってしまった。 歴史有る文字を捨てる事は、己の文化伝統を捨てる事である。今後中国には魅力的な文学作品が生まれることはない。杜甫も白楽天も出ないし、荘子や孟子、ましてや孔子など金輪際出てこないであろう。 だからせめて日本くらいは、日本語の「乗り物」として古くから連綿と使われてきた漢字を本来の姿で継承していくほうが良い。良いというより是非そうすべきである。 漢字は表意文字である。言い換えれば一つ一つの文字は絵だ。その絵の一部を便宜上の理由で、殊に役人風情が変えてしまっては、漢字に内在する意味を歪め、ひどい時は全くおかしなものにしてしまう。 幾つか又例を挙げてみる。 先ず鳥の「巣」という文字がある。常用漢字のこの文字は木の上に有る鳥の巣を表す会意文字である。 「厳」という常用漢字も雁垂れの上には「巣」と同じ「ツ」が書かれる。しかしこの常用漢字の「厳」は略字だ。本来は「嚴」という字で雁垂れの上には「口」が二つ書かれる。これは「言いたてる」という意味で本来の「厳」という文字は「きつく言いたてる」→「きびしい」と言う意味が出てくる。 これと仲間の字には「哭」がある。この字の場合は口が二つ書かれるままであって「ツ」には変化していない。「哭」は常用漢字でない所為かもしれない。意味は犬が二頭で鳴きあっていることから「大声で泣き叫ぶ」となる。 厳かに且つ厳しく言葉を発するという漢字が、単に画数が少なく使い易いからという理由で鳥の巣と同じにされてしまってはならない。 ついでに言うと「栄」や「営」も「ツ」を戴いているが、元々は「榮」や「營」と書くべきもので、やはり鳥の巣とは何の関係もない。 いささかしつこくなったきらいがあるので、もう二つだけ例を掲げてみる。 恒星とか恒常という時の「恒」もやはり常用漢字である。この字は本来「恆」と書くのが正しい。この字の旁である「亙」は「わたる」、「行き渡る」という意味で、心を表す立心扁と共に「心に満足が行き渡って平常である」→「変化しない」→「恒常普遍」ということになる。 ところが常用漢字の旁である「亘」は「水流などが渦巻き巡り変化していく」という意味の字であり、恒常普遍とは全く逆の意味になってしまうのだ。 最後に「恋」という字だ。これも常用漢字だが俗字からの略字である。本来は「戀」と書くのが正しい。「心」の上は、言葉を両側から相互に糸で繋いで「お互いに惹かれる」という意味になる。まさに「恋」の本質を突いているではないか。 ところが常用漢字では、心の上に「亦」と書いてしまう。この「亦」は「脇の下」という象形文字に由来する。そうすると「恋」は「脇の下の心」となり、ただ「こそばゆい気持ち」だとなってしまう。 こういう例はちょっとした漢字字典を見てみれば枚挙に暇がない。 つまり画数を減らして「合理化」することで、いとも珍妙な文字になってしまっているのだ。 本来の字形を知っていれば、知らない文字に出会ってもその意味を類推できるはずのものが、常用漢字ではそれが出来なくなってしまう。 英語の単語でも、語源に遡って学習すれば知らない単語でもその「表情」が分かるから、文脈などからしてその意味を推し量る事ができる。僕は実際この方法で英単語の学習努力を随分節約できた。それに上述のように応用も利くようになる。これは漢字の場合でも同じであるべきだ。 何より、漢字の成り立ちを理解できる事で、その文字の「表情」や歴史、つまりは「日本語の心」、「日本人の心」を理解するよすがとなる。 それに何よりわが国の古典を読むことが出来る。常用漢字しか知らないと、たかだか百五十年ほど前の文書すら読むことが出来ない。自分の国の歴史すら読めない文字を教えるなど、亡国の所業である。そうではないか? だから経済合理性を優先させた歴史の浅い常用漢字など廃して「旧字」や本字を復活させるべきなのだ。 こういう事を云うと、先ず「画数が増えると教育負荷が増える」という反論が来そうだ。しかし、漢字は元々「意味のある絵」だ。絵として覚えればよい。又漢字の部首はある構造をもって組み合わされているのだから、部首それぞれの意味を理解するようにすれば、「知らない字でも読める」、少なくとも凡その意味を前後から類推できるようになるはずである。 「画数が増えると書き辛くなる」という批判には、今時文章はパソコンのワープロソフトで「書く」のがどんどん普及しているのだから、パソコンで入力すればいいだろうと反論させていただく。つまり、文字は必ずしも書けなくても良い。正しく読めて意味を理解できればそれで良いのだ。むしろその方が大事だと思う。 わざわざ文字を手書きにする人や書家などは、元々漢字に愛着を持っている人が殆どだから、そういう人には常用漢字よりも本来の旧字などの方がむしろ歓迎されるだろう。 しこうして、日本人として先達の文書をちゃんと読め、日本の文化伝統に対する理解が深まるほうが、遥かに国のためにも、我々自身のためにも意義があろうと思うのだが、いかがであろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.06.13 01:01:00
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